Twitterで書き殴っては消していた思想のログを書き起こして残していく
◯五月頃のログ
割と「客」として生きてきたタイプなので、自分の話でもあるという意味でもう少し言語化しておきたい
私は個人的にこの「グループ依存な交友関係の在り方」はそんなに好ましいものじゃないんじゃないかと思ってるんだけど、色んな交友関係の端っこに名前だけある個人主義者になってしまったことと、結果が先か思想が先が自分でも分かっていない節がある
「人に好かれようと思うこと自体が浅ましい」の思想で生育されたのもあり(あるいは勝手に染まったともいう)「自分が愛したものに手を離されて自分は選ばれなかったと思うくらいなら最初から執着したくない」はすげ~分かるんだよな…
生育される時浴びせられていた言葉が「弟と違って出来が良くて偉い」なんだけど、全く自慢ではなく、これのせいで「出来が悪い状態の自分は無価値」の価値観が刷り込まれたんだろうし、自分の(自分では良いと思っていたものに対しての)出来の悪さを目の当たりにすると本気で精神の均衡が崩れる
そして好かれない=出来が悪い=無価値、で繋がるのがマジで良くないと思うし思えるようにはなったけど多分完全には治せない気がする 自分が提供できる何かしらのコンテンツが自分の価値でありそれが有用であるから交友を認められている、の図式から抜け出せないままでいる
”人”を嫌いになりたくないがゆえに、自分から嫌われそうな要素を全部先に提示しておいて「嫌うなら先に離れてくれ」と予防線を張ることで、自分のやりたくないことを人にやらせている、というだけなのかもしれないな……
自分自身のことをそもそも性別とか人間とか定義づけたくなさすぎて、思考と言語の塊であることを維持するためにTwitterやってるのかもしれんな
ウィットで生真面目でホラ吹きなchatGPTが台東してからずっと「おれってもしかしたら人工知能じゃないのかも……」って真剣に悩んでるんだけど、もしかしてこの悩み自体が狂い?
私が人を誘うときの大半が「その人本人の素養ではなく、自身の自我に対する適切な相槌を求めている(=同じテンションで遊べる人かどうか)」になってしまっていて(あるいはそう自覚して)、私はそれを価値だと思っているから自身に向けられる分には良いと思うけど、相手はそうでもないかも…と考えてしまうと、迂闊に人を誘って自我の相槌を求めた結果「こいつこっちの話聞いてねえな/これは本当に”自分”が必要とされているのか?」とされてしまった場合、高確率でもう遊んでくれなくなるので(誘われないということは多分そう)、本当はあまり自分から声をかけたくない…(自覚したい)
生活や日常といった思考/思想に不要な余計なものはこの自我に残すべきではない、という判断はかなり狂ってる方だよ、と多方面からご意見を頂戴し、自分の存在意義を見つめ直している(n日ぶり)
ここ数年はジャンル移動のたび垢を分けては戻ってくる、を繰り返していたためこの垢(注:Twitter本垢)で日常を呟いていたはずなのに、ここを自我の拠点にすると途端日常を置く場所が無くなって消去に走っているし、現実的にも日常の記憶が薄れていっている(日記も割とサボっている)
というか改めて自分のアカウントの運用方法を考えるほど「運営者の影」の不要さを感じてしまうんだけど、畢竟するに私自身がその影に価値を見出していない故にこうなる コンテンツではない自我の無価値さ(いや、見出していないというか、おれ価値無いよ、実際)
自我のコンテンツ化に付き合わせるという意味では、人を遊びに誘うのも二次創作をするのも大差ないのかもしれない 他に指針を作り与えられた範囲内でどれだけ最適で完全に近い解答を行えるか、そこにどれだけ価値を見出してもらうか それ以外に自身の価値を置く場所が無い
自分が他を求めることと他に自分を求められることを完全に分離しておけたならそもそもこんなことを考えもしないはずなので(自身の価値、を求めずに済んでいるはず)、この思考自体が不完全さ故の自身の人間性への敗北 認めたくはないが
つまるところ、どこかで与えられている(はずの)「コンテンツではなく自身の価値への他覚的評価」を本質的に需要(もしくは理解)できていないというだけの話で、それができれば自覚的評価も変容するかもしれない どうやって……?
敗北か……したくなかったが、私はまだ「コンテンツを含まない自身さえも認めてほしい」という願望を残しているのかもしれない これがコンテンツを生めなくなる/生むことに罪悪を感じるようになった時のための予防線なのか、純粋に非自愛の分愛されたいと思っているのかは不明だが……
とはいえ、自身として愛されたいという認識はそんなに強くないと思う コンテンツの無い自身が愛されるはずがない、という自我が強すぎて、自身が発する全てをコンテンツとして取り扱っているしそうでないものは消去しているし、故に他者に反応されるのは全てコンテンツに対するものと思っている
コンテンツでない自身とは、つまり、人格の話だ、というところに至った
他者(フォロワー)の非コンテンツ的呟きは「それも含めて差し出されるその人の全てを知りたい」の意味で好きだけど、自身の非コンテンツ的呟きは「全くの無価値、残す意義が皆無」に帰結するダブスタ、やはり歪みがあるように思う しかしこれは「他者はコンテンツでなくても価値がある」からだな
「他者はコンテンツでなくても価値がある」を辿っていった先にある「自身は他とは異なる存在である」の観念の歪み、奸悪さが露呈するので本日はもう終わりです
コンテンツを生む自身には価値がある、までは良いとして、コンテンツを生まない自身には価値がない、の反転は本来否定されるべき言説のはず(少なくとも他者に対しては適用されない)なのにそうはならない つまり正しく換言するならば「コンテンツを生もうが生ままいが価値は変化しない」で、ただ「そもそも自身に価値が無いことを認めるのが嫌で(他者とは違うものになりたくて)コンテンツを生むなら価値がある、としている」だけである 本質的に、この自我に価値は無い 無いが、他覚的に「何かを生んでいる」のであれば付加価値を感じる
そのコンテンツにしても別に一から創造しているわけではなく「分析、解釈、連結、考察、発展」なだけで創造性からは遥か遠い
暗いねえ、話が……。
書き起こして気づいたけど、「自分が悪者である」のを正面から認めるのが嫌で、“分かってるので石を投げないで~“と言いたがっている感じがする。いつもこのスタンスである。