思想 相手のことを本当に嫌いになることなどほとんどない

というのは、大抵の場合「相手を通して自身の不足を突きつけられている」だけなのだ。

そこにあるのは自己嫌悪で自己卑下で、誰でもない誰かに対して発された言葉を受けて被害妄想で傷ついている。
「こういうことができる人がいい」という宙ぶらりんの言葉を「そういうことができない自分は必要とされていない」と曲解して、傷ついて、そしてその言葉を発した相手に「自分を傷つけてくる人」とレッテルを貼る。

なんとばかばかしいことか。
自己中も大概にしたまえ。

閑話。

私は時折絵を描くが、「絵を描く人間」ではないし、そうは名乗らない。
が、それと同頻度かやや多いくらいの量で小説を書き、物書きと名乗っている。
あるいは好きなキャラクターや誰かや自分自身について考え短文で呟き、思考生命体と名乗っている。

どれも中身の質は大差なく素人だ。専門の講座に通ったわけでも誰かに師事したわけでもない。なんなら参考書すらほとんど持っていない。参考書の量で言えば音楽の方が余程ある。まあ、「演奏する人間」と名乗るときはある。

ではなぜ、絵を描く人間だとは名乗らないのか。名乗りたくないからだ。

なぜ名乗りたくないのか。あまりに不足しているから――そう思うということは、絵に対してのみ評価が厳しすぎるのかもしれない。
不思議なもので、絵を描くのは嫌いではないし自分の絵は「好き」なのだが、決して「上手い」と思わない。そしてこれは主観ではなく客観として明らかな事実だ、と思っている。

自分が自分の絵を好きなだけ。ただそれだけの話で、それもいいよ、とたまに誰かが言ってくれたりする。それはとてもありがたい。が、事実は変わらない。

私は絵が下手だ。その上で、上手くなろうと必死に努力するわけでもない。どうせ下手なことに変わりはない、と思っているからだ。

小説はそこそこ書ける自負があるし、好きな作家の小説から効果的な表現技法や語彙やストーリーテリングを学ぼうという意欲がある。音楽も過去そういう経験を経て、まあ趣味でやるには足りる程度の基礎を得た。
絵はそれが無い。道標が無いのだ。目指しているわけでもないものをおこなっているとは名乗れない。趣味とすら呼べない。時折描く、それだけ。

これは完璧主義の一端なのだろうか。

閑話休題。

学生時代というのは兎角「グループ」で行動をする。させたがる。
別に孤独であったところで学業にもその他の活動にも大して支障は出ないはずなのだが、集団行動を是とする風潮に流されるようにグループを作る。それが当たり前である意識を刷り込まれる。

それがずっと、ここまで、尾を引いている、ような気がするのだ。

思い出がある。

高校生になったばかりの私が、音楽系の部活に入部したときの話だ。楽器の扱いを少し覚えてきた頃、課題曲(らしきもの)を与えられた。複数人で演奏する、部内発表会のための課題だ。

一年生は一桁しか部員がいなかったので先輩が何人か混じってくれることになった。が、ひどく人見知り(当時)の私がほとんど知らない年上相手に話しかけられるわけもなく、部屋の隅で一人で譜面台相手にしていた。

その向こうで、何人かの一年生たちが固まってワイワイと話しながら練習していた。世間話というか無駄口というか(こういう言い方しかできないからコミュ障なんだが)単なるおしゃべりのようだったが、そこへ他の一年生もつられるように集まって輪を作る。

私は動かず、見て見ぬふりで、ただ一人で練習していた。

私はいつの間にか泣いていた。部室の隅で、壁に向かって譜面台を立て、楽器に触れながら泣いていた。

楽器も演奏も部活の雰囲気も好きだったので、真面目に練習しろよ、とか、先輩たちに怒られるよ、とか、いわゆる怒りのような悔しさのような感情は確かにあった。
けれど、それ以上に私の中を支配していたのは、「なぜ私はひとりぼっちなのだろう」という果てのない悲しみだった。

誰かに声をかけることもできず、声をかけられることもなく、賑やかな集団の対角で一人真面目に楽器を練習している。それだけのことがなぜそんなにも悲しいのか、自分でもよく分からなかった。

どのくらいそうしていたかは覚えていない。実時間ではほんの5分程度のことだったかもしれないが、体感時間は無限に思えた。小説なんかでこういう比喩を見かけるが、理由の分からない悲しみのさなかというのは本当にそんな感じなのだ。
私は行儀悪く服の袖で涙を拭いた。私服校だったので構いやしない。そうして無心で練習し続けた。
その後誰かが話しかけてきたかどうかは思い出せないが、私から話しかけていないことだけははっきりと言える。

あれから十数年経ってまだこれだけ鮮明に書き出せるということは、余程しんどかったのだと思う。あの頃はなぜ自分がこれほど悲しくならなければならないのか分からずにいたが、自身の虚栄心をそこそこ制御できるようになった今なら言語化できる。

自分は必要とされていない、と感じるからだ。

人見知りな割に人が好きなので、楽しそうな集団に混じりたい気持ちがある。同時に、集団に拒絶されることへの恐怖もある。自ら声をかけて断られるくらいなら、声をかけずに一人でいた方がマシだ。断られた、という事実は生まれないので。
結果的に声をかけられることを待つようになり、一人黙々としているこちらへ相手も声をかけてこないので、望んでもいない孤独の完成である。

こんなことは、言語化できるようになっただけで根本はほとんど変わっていない。

私は、相手を通して自分を見ている。この人と比べて私は、何を持っていて何を持っていないのか。この人が私に求めるのは何なのか。私が与えることができるのは何なのか。
いつもそこには自身の不足が見えて、言われてもいないのに「必要とされていない」と感じる。面白いことを言えなかった、共感性が足りなかった、しかしそれは反省ではなく、今から直すこともできない「事実」でしかない。

これは完璧主義なのだろうか。

未だにグループで人と関わるより一対一でのやり取りを好むのは、こういう部分が抜けないからかもしれない。

人はひとりひとり違う考え方を持つ。それが集団になると「集団の意思」になる。集団の意思に自分は馴染めないし、集団の意思に拒絶されるのも嫌だ。どうせ拒絶されたり嫌われたりするならば一対一の方がいい。好かれるのも同じだ。
一対一では、自分から声をかけられるようになった。あの頃に比べたら随分進歩している。
あとどのくらいすれば、「相手という一人の人間」と向き合うのが上手くなるだろうか。

誰もが自分を傷つけにきている、という自己中心的な思い込みから脱却できる日は来るのだろうか。