赤い手ふたつで傘を持つ

 一人きりで、暗い雨の中を歩いていた。
 死体と、死体のようなものと、これから死体になるもの。地面に散らばるそれらへ、そしてその間をすり抜けるように歩く自分へ、重たい雨粒が降り注ぐ。防弾チョッキの上に着たパーカーはすっかり色を変え、不快さを伴って腕にまとわりついている。どうせ濡れる前から真っ赤に汚れていたはずなのに、傘を差したいと思うくらいにはその重さが嫌だった。
 何を洗い流してくれるわけでもないのに。
 このまま雨が降り続けて、世界を飲み込む洪水が起きて、今度こそ何も残らないように神がすべてを洗い流してくれたらいいのに。どんな穢らわしさも、どんな美しさも、どんな罪でさえも、すべてがなくなればいいのに。
 べちゃ、と踏んだ水たまりが雨によるものなのか隣の死体が流した血なのか最早判別する気も意味も失い、ただ、また汚れた、とだけ思った。
 ――俺は、俺だけは、優秀すぎたな。
 隣の死体はGSG-9の同僚だった。
 掃討作戦の終了を告げるサイレンが響く。それは同時に、地獄から引き戻される合図でもあった。
 
 
「はあ……」
 夕食一番に憂鬱な溜息が聞こえる。今日は好物がメニューにあったはずなのに、と正面の顔を見ると、思い切り生ぬるいビールを呷るイェーガーがいた。
「おい、そんなに飛ばして大丈夫か?」
「明日は遅番だ、昼まで寝かせてもらう」
 彼が酒に手を出すのは、嫌なことがあったときだ。ただ、誰か他の人間が原因となるなら間違いなく当人にぶつかりに行くだろうから、どうしようもない事故か、もしくは彼自身で消化しなければならないことである可能性が高い。バンディットは手元のフォークでソーセージを転がしながら、尚もジョッキのビールを口にするイェーガーへ問う。
「今日は何があったんだ?」
「……」
 答えない、ということはつまり、そういうことだろう。激情家に見られることが多いが、本来イェーガーはエンジニアらしく理性的な面が強い。内省的というほどではないが、年齢を重ねた影響もあってか自分の中で結論を出して消化しきるまで、他人を用いて愚痴や鬱憤晴らしをしようとはしない。逆に言えば、答えがないなら彼の中で自問自答の途中なのだ。不機嫌そうに口を噤む、というよりかは落ち込んで見えるイェーガーに、バンディットは首を振った。
「言わないならいいが」
 皿にフォークが当たり、カン、と甲高い音が鳴る。冷めてしまったソーセージを口に運んで、黙々と食事を摂るイェーガーを眺めた。
 
 食後、プレートを片付けていると、突然脇腹に冷たい感触がした。
「ぎゃっ!」
 イェーガーが驚いて振り向くと、意地悪く笑っているバンディットがいた。その両手をイェーガーのパーカーの裾から引き抜き、腕を組んで頷いていた。素直に腹が立った。ただでさえ気が立っているのに、余計に。
「何すんだよ!」
 ジョッキ二杯しか飲んでいないからか、アルコールを摂取した頭でも正常に思考は働いた。基本的にバンディットのやる悪戯に意味はない。理由を尋ねても、他人の反応を見るのが楽しいからとか、お固い奴が慌てふためくのが面白いからとか、まるでティーンのようなことを言う。だからイェーガーの口から飛び出たのは疑問ではなく怒りで、たとえそれが恋仲にある男だったとしても、だからこそ、感情をぶつけることに躊躇はなかった。
 バンディットもそれを分かっていて頷く。今度は意地の悪い笑みではなく、どこか優しさをおびた瞳で口元を緩ませた。
「なあ、散歩でも行かないか、マリウス」
 唐突な誘いに曖昧になってしまった自分の返答を、酒が抜けた今でも思い出せない。
 午後七時半。約束の時間まで、あと三十分。
 寝転んでいたベッドから起き上がり、なるべく綺麗にアイロンがかかっているパーカーを選んだ。
 
「お、マリウス」
 傘を持っていない左腕を上げた先に、幾分か顔色の良くなったイェーガーがいた。食堂の時とは違う白色のパーカーと空色の傘が重なって、どんよりと曇った夜空の中で彼だけが晴れているように見えた。
 どうしていつもお前は眩しいんだろうな。
 そう思いながらもたれかかっていた背後の時計台を見上げる。八時十分前。
「来てくれたんだな」
 バンディットが小さく笑うと、イェーガーはほんの少し顔をしかめた。嬉しいのと、照れと、もしかしたら来ないかもしれないと思わせてしまった罪悪感が隠しきれなかった。いい年をして、と自分で思う瞬間はいくらでもあった。それでも、自分が想いを寄せる相手のことを、恋人のことを素敵だと思う感情が勝っていた。たとえ雨の夜でも、遠くへ行くわけじゃなくても、二人で並んで歩けるのは、嬉しい。
 綺麗に舗装されている道路側ではなく、土の残るグラウンドの方へ足を進める。若干泥濘んだ地面がバンディットの靴に絡んで、べちゃ、と音を立てた。
「雨になっちまったな」
 隣で空を見上げる声に、事もなげに答える。
「まあ、分かってたけどな」
「……知ってたんならやめれば良かったのに」
 そう言って目を細めるイェーガーが、コンマ五秒だけ動きを止めた。
 優しすぎる、と思った。
 同時に、自分の幼稚さが悔しくなった。
「今日、お前と歩きたかったんだ」
 緑色の傘が揺れる。振り向いたバンディットの瞳にイェーガーが映る。晴天のような白と水色が、眩しく映り込む。
 本当はいつだって隣にいたい。自分達の仕事と使命を考えれば簡単には口に出せないその想いを飲み込んで、雨の中で輝く晴天に背を向けようとした。
 その背から、呟きが聞こえた。
「本当は、雨が降ってるの好きなんだよな」
 イェーガーは見上げていた。暗い雲、月の見えない夜空、冷たい雨粒、泥濘んだ土と靴。憂鬱の象徴、天災。雫が傘を伝って地面へ落ちていくのを、その横顔越しにバンディットは見ていた。
 傘を持たず雨の中を歩いた記憶がある。頭の天辺から爪先まで雨粒と血に濡れながら歩いた日がある。自分を慕っていた偽りの部下のことも、失敗して捕まった尊敬する先輩のことも、この手で殺した。引き金を引く度重くなる腕とまとわりつく血溜まりが嫌で、染み込んでいく雨粒が嫌で、ずぶ濡れになっても尚傘を求める自分が嫌で、何もかもなくなってしまえばいいと思っていた。
 イェーガーは、雨が好きだと言う。
「なんでだ?」
 いつまでも、あの地獄から抜け出せないままなのだと思っていた。
 それを変えてくれたのは、紛れもなく、晴れ渡る笑顔を向けてくれるイェーガーだった。
「硝煙の匂いが薄くなるから」

 空の上は雲がないからいつも晴れている、と知った時、なんだか世界の秘密をひとつ手に入れた気がして、心が躍ったのを憶えている。叔父は空を飛ぶ人間ではなかったが、空を飛ぶ人間の手助けをする仕事をしていた。何より、空が大好きだった。叔父が空の話をする度、いつか自分も空を飛びたい、と思った。
 空を飛べるようになった頃、叔父は死んだ。悲しかったし苦しかったが、寂しくはなかった。自分には空がある、空のあるところに叔父もいる、と思っていた。神は善良で敬虔な信徒を天国へ連れて行くと仰っているから、きっと空のもっともっと遠くへ叔父は行ったのだろう。そう思えば、辛いことはなかった。
 ヘリパイロットの仕事をして、航空力学を用いたエンジニアの仕事をして、そうして辿り着いたのは、テロリストを殺す仕事だった。
 人を殺す訓練をする。人を殺す武器を持つ。人を殺す技術を身につける。そうして、経験を積んだ。仕事を遂行し称賛されるほど、自分の手が赤く染まっていくのを感じた。
 空が好きだった。雲ひとつない青空が。入道雲の上る晴天が。薄暗く光る曇天が。泣くように降る雨雲が。凍えてしまった粉雪が。あるいは、不機嫌に閃く雷が。その日その日で顔色を変えて、それでももっと遠いところでは何ひとつ変わらず在る空が大好きだった。空は世界そのものだった。
 でも、もう自分は天国には行けないだろうと、真っ赤な手を見て思うのだ。
 
 
 バンディットは、イェーガーの言葉に一瞬息を詰まらせ、そうして傘を畳んだ。
「おい?」
「……俺は、晴れてるのも好きだな」
 数秒ほど、浴びるように雨粒をその身体に受け、顔を拭ってイェーガーの傘へ入った。驚きこそすれど、少し狭くなった傘を拒絶することはない。柄を持つイェーガーの手を上から握って、バンディットはキスをした。
「お前の匂いが消えないから」
 互いに、赤く染まったその手を洗うことはできないのだと分かっていた。
 銃を持ち、敵を殺し、愛しい人に触れる、その温かい手を重ねて、幸福を思った。今この時こうしている幸福は、とても脆く弱々しく束の間のものでしかない。いつかは離れてしまう手も、いずれ止んでしまう雨も、その先で銃を握ったり虹を作ったりする。未来なんて分からない。明日死ぬかもしれないし生き残ってしまうかもしれない。
 ただ、天国には行けないということは、分かっていた。
 唇が離れると、イェーガーは頬を紅潮させ、目をそらした。
「……雨だから、まあ、許す」
 理由と結果の因果がつながっていない気がしたが、間に二つほど抜けた事由があるのだろう。バンディットは誤解されやすい物言いを思惟し、冗談めかして問う。
「雨はまた降るだろうが、俺達が生きているかは分からないな」
 その言葉にイェーガーはぱちくりと瞬きをして、当然のように答えた。
「だから、生きてる今、何をするかが大事なんだろ?」
 泥濘んだ土へ、一歩踏み出す。イェーガーの靴が泥まみれに汚れる。それでも気にせず先へ行こうとする姿に、バンディットは一歩遅れてついていく。傘の中へ入ろうと、隣を歩こうと、泥濘みの上へ入る。
 一度汚れたから気にしないんじゃない。次に汚れることを分かっていて尚その道を歩くのだ。
 「なあドミニク。散歩、誘ってくれてありがとう。今日の失敗、俺がバカだったの、ちゃんと見直す」
 
 帰り道を往く頃には、雨が上がり始めた。湿った匂いが辺りを占領して、夜の靄の色に残る。雲が残るせいで星はよく見えない。三日月だけが雲間から顔を覗かせ、笑っているようだった。
「もういらないか」
 わずかに傘から出した手で雨粒をはかり、イェーガーも傘を畳んだ。そっと離した手を見て、晴れた空を見て、バンディットは息を吐いた。
「お前もいつか、俺の前からいなくなるときが来るのか」
 当たり前のことだ、と言ってほしかった。現実は常に非情で悲惨で、だからこそ自分達は死ぬまで生き続けるのだと。今何をするのかが大事で、未来なんて何も分からないままでも、必ず来る別れのときはあるのだと。
 別れのときが来るまで、幸福でいていいのだと。
「そうだな」
 イェーガーは、畳んだ傘を片手に持つ。
「でも、」
 そうして、自分より少しだけ体つきの良い恋人を、笑って抱きしめた。
「たとえいなくなっても、俺がお前を好きだってことは、変わらないだろ」
 バンディットもつられて笑う。雨上がりの空の下で、畳まれた傘を抱え、洗い流されることのない手を、優しいぬくもりの背に回した。

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