八月十三日から数日間、バンディットの部屋にはラベンダーの香りが漂う。普段花など無縁の一人部屋にこの香りがすると、ああ、今年もイェーガーは生きているんだな、と感じる。なぜ誕生日であるはずの自分よりそれを祝ってくる彼の生命のことを考えなければいけないのか。バンディットは苦笑しながら、白い花瓶に生けられた小さな紫色の花たちを見つめていた。
「パーティはこれでお開きか?」
「ああ、全員寝るなり酔いを覚ますなりで帰っていったよ」
クラッカーに使い捨ての皿やフォーク、カップもウイスキーの瓶もそのまま捨て置かれていた。散々騒いだ残骸たちがバンディットの部屋の床で漫然と居場所を主張しているのを見て、イェーガーは溜息をついた。
「これだけ祝われて片付けは全部自分とは、人望があるのかないのか、分からんなあ」
「俺を宛にして騒ぎたいだけさ」
バンディットは淡々とゴミを拾い集める。覚めた夢の欠片を一つに固めては、蓋のついたゴミ箱にまとめて放り込む。慣れた作業だった。
アメリカ人やフランス人は案外適当で敵わないと肩を竦めていたブリッツは、飲み過ぎて朦朧とした身体をルークに支えられ早々に部屋へ戻っていった。そんなブリッツは故郷ベルリンのバームクーヘンをわざわざ取り寄せてプレゼントとして持参したが、一輪丸々は大きすぎて全員で分け合った結果バンディットの腹に入ったのはほんの五センチ程だった。スモークからのプレゼントは定番にも程があるびっくり箱「Jack-in-the-Box」で、ひとしきり笑った後、その箱の底の得体の知れないガスの詰まった瓶に気付いたバンディットはスモークに一時間座禅の刑を課し、ついさっき痺れた足を引きずって帰室した。
「モニカがいたらこっぴどく叱られてるところだ」
「違いない、特にポーターとリュウはな」
表情はあまり変わらないがどこか柔らかく呆れているようなバンディットに倣い、イェーガーはゴミを集めた。十分もすれば床はいつものフローリングの顔を見せ、机は普段より整った気さえする。ほんの数十分前までは何人ものオペレーターが一つの部屋で酒を酌み交わしていたのに、その面影はまるで綺麗に無くなっていた。何事も終わるのは呆気ないよな、とバンディットは心の裡で独りごちる。そのままソファへドスンと腰を下ろすと、イェーガーも同じく隣に座る。すぐ近くにある頭に顔を近づけると、短い髪から彼の匂いがした。
「いい匂いだな」
「……それは花の話か?」
「ばーか、お前だよ」
「ああもう、分かった分かった……」
片手で顔を覆い息を吐くイェーガーは、照れ隠しが下手だった。隠しきれていない頬の紅さがアルコールによるものなのかバンディットの言葉によるものなのか、二人共明言はしない。
バンディットは背後の棚に飾られた白い花瓶とその中に生けられたラベンダーを見やる。
「今年も持ってきたな、あの花」
「ん? ああ、まあな」
イェーガーからのプレゼントは揃いのパーカーとラベンダーだった。どちらも特別に珍しいものではない。ただ、毎年のことだった。ファッションにあまり頓着の無いバンディットに業を煮やしたイェーガーがパーカーを買ってきた年から、パーカーは恒例だった。「喜ぶくせに、任務で着るのは一番最初に買ってきたやつなんだよな」と揶揄しても、バンディットは軽く笑うだけだった。
「――なんで毎年持ってくるんだ?」
何もかも憶えている。それでも口に出したくなった。忘れたわけじゃないだろうな、と彼は瞬きをする。
「お前がハノーファーから帰ってきた年に話してた、花の贈り物を上書きするためだ」
まだ忘れてはいない。けれど、イェーガーの言葉で聞きたかった。自分が思っていた通りの言葉であることが嬉しかった。バンディットはまるで思い出したかのように笑う。何も忘れてはいないのに。
「そうだな、俺が殺した令嬢の」
その令嬢はバンディットのことを好いていた。というよりも、好かれるようにバンディットは振る舞っていた。
ヘルズエンジェルスへの潜入任務を行っていた当時、下っ端に始まり違法薬物の売買や敵対組織との抗争による服役など数々の指示を「充分に」成功させ、バンディットは組織の幹部と接触する機会を得た。貴重な情報収集のチャンスであり、より深くに潜り込むために信頼を得る絶好のタイミングだった。その為に、信頼を得て決定的情報を手に入れる為に、組織から求められる「無法者で倫理観は欠如し、それでいて頭脳明晰な策士」の像を存分に作り上げた。
幹部は言った。
「ゲーデル、お前は実に優秀だ。効率良くクスリを売り金を回収するサイクルの構築はよくできている。縄張りに網を広げ先手を取って敵を殺すシステムも実に良い。そしてその一歩一歩に迷いが見えないのはさらに良い」
ゲーデルはバンディットがヘルズエンジェルスへ潜入した際に用いた偽名だ。その分野で唯一あのノイマンを超えた数学者の名を冠したのは圧倒的な自負に他ならない。優秀である、という、優秀であるべき、という、自負。そして追われる身となる、という自嘲。
「ありがとうございます。――次にすべきこと、大きな仕事、俺の手を使うことのできるものはありますか」
バンディットのその言葉を待っていたというように、幹部は醜悪に口角を上げた。到底笑んだとは形容できない、世界への邪な軽蔑の表情。
「ああ、ああ、丁度いい。次は✕✕✕で集会を開く予定なんだが、BPOLに嗅ぎ付けられちゃたまったもんじゃない。二つ、仕事がある」
「それは」
「一つは簡単だ。ゼーマンの死体を俺の前で作れ。スパイの疑いがある。今は巧妙に隠れているらしいが、優秀なお前なら探し出して俺の前へ連れてくるなど造作もないだろう?」
ゼーマンとはバンディットよりも先に潜入していた、同じGSG-9の捜査官の偽名だ。彼も彼で有能だったはずだが、どうやらボロが出たらしい。バンディットは内心悪態をついていた。恐らく自分にも――短期間でのし上がってきた者には皆疑惑がかけられる。怖気づかないか、裏切りはしないか、信頼を置くためのテストとして、スパイと発覚した人間をその手で始末させるのだ。こういった大規模な犯罪組織には往々にして存在する篩。
残念だったな。お前は良い奴だったのに。
それだけを思って、バンディットは先を促した。
「捜索に何人か借りられれば充分です。それで、あと一つは?」
「そうそう、それだがな、さっきも言ったように集会を開く予定がある。金がいるんだ。手っ取り早く、大量に。――フォン・ビューロー家は知っているだろう? そこの一人娘が最近この辺りへ顔を出すようになっている。二十四にもなって世間知らずの箱入り娘だ。手に入れれば何でも言うことを聞かせられる」
またこの手の仕事か、と最早うんざりしていた。金を得る為に重要人物と接触し友好関係を持ち知らず知らず協力させる。二年も三年もこんなことをしていると、嫌というほど他者へ好意を持たれる振る舞いとやらが身につく。今こうしていることさえ、自分の感情や心を殺していることさえ、何も感じなくなっていくように。
一つ気になったのは、バンディットは若い女に薬を与え売りさばくことは経験があったが自ら取り入る経験は無かった。できない気はしなかったが、予想の外だったのだ。
「俺は女を抱き込む経験はしていませんが」
幹部は大仰に下品に笑った。手を叩く仕草にさえ嫌悪感を抱いてしまうのは、自分がこの場から一秒でも早く立ち去りたいと願っているからだろうか。
「冗談はよせ。お前ほどの女たらしの顔を見たのは、鏡を除けば三年は前だ」
お前の顔は女たらしじゃなく涎を垂らす豚だ、と言いたい気持ちをぐっとこらえ、仕事を把握し話を終わらせにかかる。
「拝命しました。ゼーマンの処刑、それとフォン・ビューローの娘への接触。……彼女の名は?」
「マリーだ。マリー・フォン・ビューロー。写真と経歴はこの封筒に入っている。今日から三ヶ月後、九月までに金を産め」
投げ渡された封筒がくしゃりと音を立てる。一瞥したのちにポケットへ仕舞い、幹部に背を向けた。
部屋へ戻る途中、幹部の言葉に思い出していた。もうそろそろ、夏が訪れるのだと。
ゼーマンの捜索は比較的簡単だった。何せ同じ部隊で訓練をしていたのだ、どういう思考でどういう隠れ方をするのかは大体察しがつく。あとは人海戦術で手当たり次第に開けていけば、どこかでぶち当たる。そういう話だった。
「頼む、助けてくれド――」
彼の顔を拳で殴りつけた。今この場には二人しかいないが、その背後に下っ端が控えている。
バンディットは倒れ伏し虚ろな目をさまよわせている彼の耳元で、脅しつけるように囁く。
「――俺の名前はゲーデルだ。次に間違えたらその場で心臓を引きずり出す、ゼーマン」
今更助からないと悟った。理解したくなかったことを突きつけられた。本来なら仲間であるはずの人間に。仲間に。失敗した今は敵になる。そういう仕事だった。そんな思考に溺れ茫然自失としたゼーマンを、バンディットは引きずって車へ乗せた。下っ端が同じく乗り込み暴れないよう拘束する。そうして彼らはヘルズエンジェルスの根城へ戻っていった。
ゼーマンが幹部の前で発したのは呻き声だけだった。彼はきちんと有能だった、とバンディットは記憶に刻みながら、その身体に風穴を空けた。
もう一つ、マリー・フォン・ビューロー嬢への接触は案外というべきか予想通りというべきか難航していた。まず、彼女は一人で出歩いていても独りではない。必ず周囲に付き人が存在し、無礼な輩や危険から守る体制ができていた。二十四にもなってこれでは、確かに世間知らずになるわけだ。バンディットは余計なお世話として溜息をついた。
守られている深窓の令嬢とはいえ、できないは許されない。こちらから近づけないのなら、彼女から来てもらう他ない。
箱入り娘は世間の暗いことを隠されて育ってきているが故に好奇心旺盛で恐れを知らない。それは街では致命的だ。周囲で見守る護衛達も、他の人間が彼女へ危害を加えようとやってくるのを阻止できても、彼女自身がどこかへ飛び出していくことに対しては手薄に見える。それは信頼というべきか軽侮というべきか。まるで猫のように、興味を惹かれることについて令嬢がその足を抑えられなくなった瞬間、何もかも始まってしまうというのに。
そうしてバンディットは鳥を一匹躾けた。躾けられた鳥は彼女の元へ飛んでいく。彼女の周りをひらひらと飛び回り、元来た路地へ戻っていく。そんなことを繰り返す内に、彼女は街を歩くたびに鳥を探すようになっていた。彼女の周りを飛び回り、小さな鳴き声で愛を囁き、唐突に別れていくその鳥を、バンディットは路地で手にしていた。
機は熟した、と思った。
その日は普段と様子が違った。彼女は普段以上にゆっくりと歩きながらきょろきょろと辺りを見回している。付き人も彼女の動きを警戒している様子はない。
そして、彼女の視界の端に鳥が現れた。いつものように周りを飛び回ることはなく、彼女に聞こえるよう鳴き声だけを残して、鳥はすぐに路地へ引っ込んだ。
案の定、彼女は走り出した。人は自らに注がれる好奇の目を無意識に求める節があり、それは彼女も例外ではなく、ただその鳥の行く道を知りたいと思ってしまったが故に、走り出した。付き人達は突然路地へ駆け出した彼女を慌てて追いかけるが、そこは雑多な物陰と山のように積まれた生活の廃棄物の棲家だった。彼らの仕えるフォン・ビューローの娘は欠片も見えなくなっていた。
鳥を手にしたバンディットは、飛び込んできたマリー・フォン・ビューローを一軒の廃屋へ導いた。
「思ったよりお転婆なんだな」
「――あなたは、どなた?」
曇りのない瞳で手に乗る鳥と見知らぬ男を見つめるマリーに、バンディットは完璧に微笑んだ。
「名乗る名はないが、ゲーデルとでも呼んでくれ。――フラウ・マリー」
その日から、彼女は付き人を撒いて鳥に誘われるまま遊ぶ術を習得し始めた。習得させたのはバンディットだった。世間に疎い彼女に「スリルと恋の魅力」を教えるのは造作もないことだった。
「父上と母上はいつも厳しくて困ってしまうわ」
「親っていうのはそういうもんじゃないか? 一人娘が心配なんだ」
「あなたにも子供がいるの?」
「まさか、……生きるだけで精一杯さ」
バンディットは「自分」の情報を混濁させないよう、なるべく彼女へ嘘をつくことを避けた。自身の生い立ち、家族、そして感情や理屈、そういった自分自身を偽るとどこかで綻びが生まれる。するべきは黒塗りでの添削であり改竄ではない。
そうして一月二月と時は流れ、彼女は明らかに信頼と好意をバンディットに置くようになっていた。
「この街のことは好き。けれど、どこかもっと遠い場所へ逃げてみたいとも思うの」
マリーは潤んだ瞳でバンディットへ告げた。それは控えめにして最大の恋の呟きだった。夏の日差しは路地に眩しく降り注ぎ、開放された窓から生ぬるい風が吹いている。情緒に満ちた静かな部屋の中、穢れを知らない令嬢は花束を取り出した。面食らったバンディットが思わず尋ねる。
「……それはなんだ?」
「ええ、確かにもう花盛りは過ぎているけれど」
「そういうことを訊いてるんじゃないんだが」
ラベンダーか、と確認すると、彼女はにっこりと頷き、花束をバンディットへ渡した。
「誕生日おめでとう、ゲーデル。友人が育てているのを分けてもらったの。――あなたにぴったりの花でしょう?」
あ、と口を開けていた。そういえば話した気がする、今日が、八月の十三日が誕生日であると。ただ話の流れで訊かれただけで、特別記憶にも残っていなかった。ヘルズエンジェルスからの指令、GSG-9への連絡、そんな任務に塗れた日々の中で、自分さえ忘れていた誕生日を、花でもって祝ってくれる人がいる。久しく感じていなかった、嬉しいという感情。バンディットは本心から笑っていた。
「――ありがとう、マリー」
そして、その相手をこれから陥れなければならないということに、最早絶望するほどの心は残っていなかった。
ある夏の日に、バンディットは組織に渡された薬物を彼女へ使った。眩しい日差しから離れた、暗い廃屋の陰でのことだった。
彼女を組織へ連れて行ったのは、丁度期限の八月三十一日のことだった。
晩夏の夜はいやに息苦しく、鬱陶しい熱気が身体の周りに漂っていた。すでに薬物で善悪の判断を失っている彼女を連れ出すのは簡単だった。
「俺と一緒に、もっと楽しい場所へ行こう」
虚ろな目をしたまま、彼女は頷いた。最早縋るものは薬物しかなくなっているのだろう。バンディットが彼女を連れてきたのを見て、幹部は意地悪く、嗜虐に顔を歪ませた。
「完璧だな、ゲーデル」
幹部が彼女をどう扱って金を得るのかなど、何も興味は無かった。ただ自分の為すべきことをしただけだった。大規模犯罪集団であるヘルズエンジェルスの情報を入手し打撃を与えること。どんなことをしても潜入し信用される立場へ上り詰めること。その結果として、一人の女性の何もかもを裏切って叩き壊すことになったとしても。
バンディットは答えた。
「為すべきことをしたまでです」
半年後、彼女は解放された。彼女を囲っていた構成員達の根城が暴かれ壊滅するという結末によって。その一帯の壊滅に手を下したのは他でもないBPOLであり、集会を開くというバンディットの情報により突如として波が襲いかかったのだ。
暴動と化し混沌となる夜闇の集会の場で、バンディットは彼女を見つけた。
出会った頃のような華やかさや可憐さは失われ、ただ薄汚れたボロ雑巾のように座り込む姿に、失ったはずの心が痛んだ。こうして情報を得て集会を潰しヘルズエンジェルスの活動を縮小化させる一助となった、自分が為すべきことをした、その犠牲となった彼女を見て見ぬふりはできなかった。
「マリー」
彼女は反応しなかった。反応する現実が存在しているのかも分からなかった。それでもバンディットは声をかけた。
「マリー……!」
彼女の目の前にしゃがみ、肩を揺さぶる。ようやく目の焦点が合ったのか、ゆっくりとバンディットを見上げ、かすれた声で呟いた。
「――久しぶり」
それは、バンディットの知る彼女ではなかった。ヘルズエンジェルスの構成員に半年間何をされてきたのか、想像するまでもなかった。完全なる薬物中毒。度重なる注射で腕は赤く青く黒く変色し、瞳は現実を捉えられず、肌は雨ざらしになった紙のようだった。
「私のこと、覚えていてくれたのね。嬉しいわ。あの時のように、また迎えに来てくれたの?」
彼女は口を歪ませた。――きっと、笑おうとしたのだと思った。ひび割れた唇はうまく笑みを作れない。
「きっと、今日が最後なのね。何もかも終わるのね。それでもいいの。またあなたに会えたから」
彼女は目を細めた。虚ろで揺れる非現実の瞳から涙が落ちた。
バンディットはそれを拭うこともできず、ただ、その手を握っていた。
「最後だというのなら、何もかも終わるというのなら、あなたともう会えないというのなら……教えてほしいの。あの日、私の花に、言葉に、間違いはあって?」
彼女の花。彼女の言葉。
彼女を決定的に引きずり込む前の、一瞬の贈り物。
「ラベンダー……」
「あなたはきっと知らないと思っていたわ。ラベンダーの花言葉は、『疑惑』なの」
バンディットの身体が凍りつく。呼吸の仕方を忘れる。信じられないと、今まで言われてきたあらゆる言葉が蘇る。
彼女は知っていたのだ。バンディットが彼女に目的を持って近づいていたことを。
「分かっていて、なぜ」
「なぜ? 野暮なことを訊くのね。キスの一つも教えてくれなかったのに」
彼女の顔が、さらに歪む。それは寂しさであり悲しさであり、諦めだった。バンディットは彼女を抱きしめた。他に何も、できることがないから。彼女へ為すべきことが、ないから。
「俺は、あんたには応えられないんだ。あの時も、今も、そして多分これからも。――だから、精一杯俺だけを憎んでくれ」
彼女はバンディットを抱きしめ返すことはしなかった。その手は地面に伏していた。泥に塗れた両手を行く宛もなく転がしていた。
「馬鹿なひと……ねえ、最後に、あなたの名前を教えて。ゲーデルでない、本当の名を」
「――ドミニク。ドミニク・ブルンスマイヤーだ」
その返答を噛み締めて、彼女は立ち上がった。バンディットを引き離し、よろよろと立ち上がり、彼女は、マリーは笑う。ひび割れた唇から、別れを告げた。
「いい名前ね。……さようなら、ドミニク」
彼女は右手で銃を番えた。そしてバンディットが一瞬怯んだ姿に愉悦を浮かべ、止める間もなく引き金を引いた。
その銃口は、彼女の唇が咥えていた。
銃声。
彼女の背後に花が咲く。真っ赤な血で花が咲く。それは宵闇の中で色をくすませ、泥と混じり合い、まるで濃い紫色のようだった。
GSG-9への帰還命令が出たのはその数日後だった。
イェーガーに彼女のことを話したのは、ほんの気まぐれだった。
ハノーファーから帰還した年の誕生日、偶然イェーガーが花を持ってきた。
「……花?」
「柄じゃないのは分かってるから言うな。いや、知り合いが育てていてな」
「どうして……」
どうしてラベンダーなんだ、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。去年の誕生日、あの時と同じ、『疑惑』として渡された花。その意味を知るのは自分だけなのに。
バンディットの様子がおかしいと気付いたのか、イェーガーは首を傾げた。
「何かあるのか? この花に。嫌なら捨てるが」
細かい機微など分からない。ただバンディットが狼狽するのは珍しいと、不思議に思って問いただけだった。イェーガーはいつもそうして、バンディットの中の諦めを引き出すのが上手かった。GSG-9から帰ってきた当時、有る事無い事噂をされ遠巻きにされ煙たがられていた彼の隣で笑っていたのはイェーガーだった。
唯一無二の、頼れる同僚にして、危なっかしい愛する人。
誰かに想われる資格など無いと諦めていた自分を救いあげた人。
「捨てなくていい。……去年の誕生日、同じ花をもらったんだ」
そうして、マリー・フォン・ビューローの顛末を知るのは、この世にただ二人となった。
「花言葉っていっても、一つじゃないだろう。――俺も知ってる人間じゃないが、もっと違う、誰かを思う花言葉だってあるんじゃないか」
「そうなのか?」
「分からん」
あっさりと答えたイェーガーに、バンディットは思わず吹き出した。正直なやつ。
「お前、そういうところあるよな」
「なんだ、皮肉か?」
「皮肉は、伝わらない限り褒め言葉だ」
「褒め言葉では無さそうだってことは伝わったがな」
イェーガーは呆れたように肩を竦める。
彼には分かるだろうか。今こうして、誰も疑うことなく、誰にも疑われると恐れることなく、誰も陥れようとすることなく過ごしている時間が、いかに平穏であるか。緊迫感と重責で張り裂けそうになっていた四年間がいかに地獄であったか。願わくば、彼はそんな地獄を知らないままで、敵を倒す、テロリストを殺す、そんな正義の枠だけでいてほしい。
イェーガーは知ってか知らずか、自らの持ってきたラベンダーをバンディットに渡し、告げる。
「でもきっと同じことだ。お前の苦しみの全部が伝わるわけじゃない。それでも、苦しみを上書きすることはできる。……忘れなくていい。ただ、たった一つの思い出に縛り付けられる必要もない」
手元のラベンダーを見つめるバンディットに、イェーガーは目を細めた。
「これから毎年、この花でお前の誕生日を祝ってやる。彼女のことも、その後のことも、もっと上書きすればいい」
ソファに並んで座る風景が当たり前になったのはいつからだっただろう。互いに愛していると通じあえたのはいつからだっただろう。今まで無駄な思い出など一つもないはずなのに、距離が近すぎると思い出せないことが多くなっていく。
「お前は本当に、二人きりになると甘えたなんだよな……」
「そうか?」
「違うと思うんなら俺の膝からどけ」
「それは断る」
どいたらどいたで複雑な顔をするくせに、とバンディットはその膝枕に頬を擦り付けた。イェーガーは溜息をついただけだった。
「なあマリウス、俺調べたんだが」
「何を?」
「ラベンダーの花言葉」
イェーガーの動きがぴたりと止まるが、バンディットは気にせず話し続ける。
「割とあったんだな。『疑惑』『不信感』あとは『沈黙』。なんか暗い花言葉ばっかりだなって思ったんだが、」
「ああ、俺ちょっとコーヒーでも――」
「行くな」
無理矢理立ち上がろうとしたイェーガーをバンディットが引き止める。バランスを崩し、バンディットに抱きとめられる形になる。何由来なのか最早自分でもはっきりしない羞恥で逃げ出そうとするイェーガーを離さないよう捕まえながら、話をすることを止めない。
「離せって!」
「まあ聞けって。暗い意味じゃ上書きって感じじゃないし、あとは何かと思って見てみたら」
バンディットはイェーガーの耳元に口を寄せ、吐息だけを低く響かせた。
「『私に答えてください』か。マリウス、ロマンチストだな、お前」
イェーガーは身体を震わせ、顔を真っ赤にする。図星のようだ。嘘をつけないのは難儀だな、と愉快な気持ちでその身体を抱きしめた。
愛する人を抱きしめること。キスをすること。身体を繋げること。何も叶わなかった彼女のことを思いながら、目の前の恋人に囁く。
二人でいられる幸せを、彼が生きていることを、自分の生まれた日を祝ってくれることを、想いながら。
「ありがとう。愛している。お前の愛に――こたえるよ、マリウス」
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