君を救うために正解する。

「マリウス・シュトライヒャーがあなたの元へ戻る可能性は、限りなく低いでしょう」
 主治医はそう言った。覚悟はしていた。ベッドで配線に繋がれ眠るイェーガーを見て何も言えずにいるバンディットに、主治医は続ける。
「激戦だったようですね。上腕骨骨折、鎖骨骨折、脛骨骨折、それに――頭部外傷に伴うクモ膜下出血」
 モニター上に白黒の写真が表示される。骨折部位のレントゲンと全身のCT、MRI画像だった。
「前三つは手術とリハビリさえできれば治るものです。ただ……これが脳のMRIですが、前脳基底部と言います。ここだけ白くなっているでしょう。クモ膜下出血により脳機能障害が起きています。呼吸中枢は酷く損傷しているわけではありませんが、今は術後ということで人工呼吸器で補助を行っています」
 MRI画像が消える。しかし、脳の断面図に気味悪く広がる白い塊は脳裏に焼き付いて離れない。
「クモ膜下出血の予後は非常に悪いです。今彼が生きていることも崖っぷちでした」
「――マリウスは、もう、目を覚まさないのか?」
 主治医は刹那に逡巡する素振りを見せ、首を横に振った。
「彼の現在の状態を『昏迷状態』といいます。何度も強く呼びかけをすると、ほんの一瞬だけ反応を示す。ただ意識障害があり、何かを伝えるのは難しいでしょう。全くの昏睡状態ではないので、意識が戻る可能性が無いとは言えません。しかし……」
 次に表示されたのは大脳の解剖図。
「前脳基底部というのは名の通り前頭葉の底部にあり、覚醒や記憶を司っています。ここが障害されると覚醒のレベルが下がったり、睡眠障害になったり――記憶障害が起きます。もし彼が目を覚ましたとしても、後遺症として、それまでの記憶を失っていたり、自分の状況が何も分からなかったり、何も憶えられなかったり、そういったことが起きる可能性が非常に高い。そうなってしまったらリハビリも困難で、軍はおろか日常生活すらままなりません」
 解剖図が消える。バンディットは真っ黒になったモニターを見つめ続けた。
「現時点では、彼がこのまま生き続けられるとも断言はできません。まだ予断を許さない状態であることには変わりないのです」

 イェーガーが意識不明の重体で搬送されたのは、バンディットが原因だった。
 最後の人質を発見したは良かったが、最早二人の他に周りにいるのは大勢のテロリストのみだった。増援が来るまでに持ち堪えられる可能性は決して高くはなかった。周囲をうろつくテロリスト達を全て撃破し人質を連れて飛び出すのは、数々の任務を成功させてきた二人でも難しいと互いに分かっていた。だが、やるしかなかった。時間が経てば経つ程テロリスト達は捜索範囲を広げ、いずれ自分達の籠もっている小部屋を発見するだろう。数で勝てない自分達は奇襲を仕掛けなければいけない。そしてそのためには躊躇を捨てて決断しなければならなかった。イェーガーが親指で背後のコンクリート壁を指し示す。
「バンディット、俺の銃の方が打ち合いには強い。お前まだC4持ってるだろ? 後ろ、壁を二枚もぶち抜けば外へ繋がる場所へ出ると思う」
「一枚抜いた時点で、俺達は蜂の巣になっちまうんじゃないか?」
 バンディットの、表情の変わらない問いに肩を竦めた。
「前へ出たところで同じだ。なら、俺がそれ以上に奴らを穴だらけにしてやる」
 イェーガーは強く言い放ち、残弾を確認し始める。
 彼はいつもこんな調子だった。自分達のすることで大事なものを助けられると思っている。罪のない人が襲われたり殺されることを忌み嫌う。海賊対策に自らヘリコプターを操縦していたくらい、正義感と頑固さは人一倍に嫌という程持っている。
 
 バンディットはそんなイェーガーが好きだった。GSG9に入り、イェーガーと打ち解けた。似ているわけではなかったが、どこかセドリックのことを思わせるような親しみやすさがあった。そうしてすぐにヘルズエンジェルスへ潜入した。初めて服役し刑務所の中で暴行まがいのことを受けた時も、夫が死んで行き場を失くした妻を売春させる時も、親に捨てられ生きる意味の無くなった子供を引き込むため洗脳する時も、麻薬兼セックス中毒の若い女が自分の売った薬で日に日に痩せこけていくのを見ている時も、借金で首が回らなくなった麻薬中毒の男を妻子の目の前で撃ち殺した時も、それらは全て仕事だと考えながら、この世の全てに実在感を失っていた。爛れた生も美しい死もなく、ただひたすらに、肉が動いているか動いていないか、それだけしか分からなくなっていった。
 ヘルズエンジェルスのへの潜入任務が終わりGSG9に戻ってきたバンディットを迎えたのは、称賛と侮蔑だった。どんな言葉を与えられてどんな言葉を投げつけられたかさえもう憶えていないのに、いつもイェーガーが喜んだり憤ったりしていたことだけは憶えている。そのたびに、嬉しさからか悔しさからか手が震えた。
 帰ってきてからしばらくは悪夢を見た。枯れた女、脳漿の弾けた男、声も出せずに潰れた子供。恐怖よりも孤独さに胸を締め付けられ目を覚ます。そんな夜に心を落ち着かせるために想っていたのは、イェーガーのことだった。心強い同僚だとも、信頼できる親友だとも思っていた。しかしそれ以上に、イェーガーの目を見つめたり、手を繋いだり、頭を撫でたり、頬に触れたり、唇を合わせたいと想って、そうしてまた寝床につく。
 今は言えないけど、マリウス、お前のこと――。
 
「バンディット、準備はいいか?」
 その声にはっと我に返る。思い耽っていたのはほんの一瞬だったはずなのに、イェーガーは見逃さなかった。
「何か言い残すことがあるなら、起爆させる前にしてくれ」
 軽い口調で先を促す。冗談めいた言い方だったが、自分をしんがり、もとい囮にすることへの覚悟はすっかり固まっているようだった。バンディットは溜息をついてイェーガーの元へ歩み寄った。
「一つだけある」
「なんだ」
 C4の起爆装置を握る手が震える。まるで、イェーガーに恋をしたあの日々のように。
「マリウス、愛してる」
 真剣な瞳で見つめるバンディットに、イェーガーは瞬きを繰り返した後、小さく笑った。
「ここから出たら返事をしてやるよ、ドミニク」
 一度だけ肩を叩き、イェーガーは小部屋のバリケードをリーンで見張る位置へ移動した。バンディットはその背を見て、人質のそばへ戻る。
 返事なんてもうもらったようなものだろうと首を振る。そして、C4の起爆装置を押した。
「いくぞ」

 人質は無事保護された。何とか交渉を継続させたがったテロリストは最後の人質を躍起になって探していたと外で聞き、待機していた警察は脱出してきたバンディットに驚愕した。二枚の壁を破壊して抜けてきた経緯の説明は後だと言い、バンディットが戻ろうと振り向いた瞬間、爆発が起きた。つい一分程前まで自分が居た、そしてまだイェーガーが脱出していない、あの小部屋から。
「マリウスッ!!」
 イェーガーが壁へ吹き飛ばされるのが見えた。作戦が失敗したテロリストが最後の力で一矢報いろうと爆弾を仕掛けてきたのだろう、運動能力の高い彼が逃げるのに間に合わなかったことが恐怖で仕方なかった。バンディットは部屋へ飛び込んだ。爆弾を仕掛けたテロリストは自らの爆弾の威力で死んでいた。そしてイェーガーは、すぐ手前の壁に倒れていた。彼が居たのは、この部屋よりもっと奥のはずなのに。
「マリウス……」
 四肢はぐったりと脱力し、壁に叩きつけられたと思しき肩口と左足が血に塗れている。自分の声への反応は何も無かった。
 担架がイェーガーを運んでいくのを、茫然と見ていることしかできなかった。
 俺があんなこと言ったから、頑張っちまったのかな。
 バンディットは無傷な自身を、どうしようもなく罰してほしかった。

 傍目から見ると、イェーガーはまるで眠り続けているだけのようだった。ただ人工呼吸器やモニター心電図や点滴のシリンジポンプが纏わりついている以外には。バンディットは無造作に広がる彼の髪を撫でようと手を伸ばしかけ、途中で引っ込めた。
「なあ、マリウス。お前、まだ起きないのかな」
 ぽつりぽつりと、無意識に言葉が紡がれる。
「マリウス。お前、俺のこと忘れてんのかな」
 どんな人間だって死ぬ。勇敢でも賢くても幸運でも、俺も、お前も、死ぬときは死ぬ。分かっているはずなのに、言葉と共にバンディットの視界が歪む。涙は落ちなかった。
「俺がお前のこと愛してるって言ったことも」
 いっそすぐに死んでいたら、俺はお前を過去にできたかもしれないのに。
「お前からの返事を待っていることも」
 誰よりも俺を救おうとしてくれていたのに。
「何もかも、無かったことになってんのかな」
 死が怖いわけではない。死は、この唾棄すべき世界において唯一無二の平等だ。そして、それすらも実在感は無かった。今まで出会った犯罪者の死体も、仲間の遺体も、この手で殺した誰かも、この世界ではいつの間にか烏有に帰する。イェーガーだって同じはずだった。
「……俺のせいで、お前を失うのが寂しいんだ」
 バンディットは点滴の繋がれたイェーガーの手をそっと握る。どうしてこうなってしまったのかと悔やむ時間は山のようにあった。二人でひたすら増援が来るまで殺し続けていれば。人質発見を優先しすぎず仲間と合流していれば。それならもっと前、別の誰かと共に飛び込んでいれば。――悔悟は尽きない。今はまだ温かいその手を、どうやって守ったらよかったのだろうか。何が正解だったのだろうか。
「なあ、マリウス」
 奇跡を思い浮かべようとする。彼が意識を取り戻し、記憶を持っていて、生活に障害が残らず、リハビリを乗り越えて、同じ部隊で働ける日を。今までと同じ、大事なものを助けようと頑固に努力する姿を。
 バンディットにそれを思い描く力は無かった。
「また会えたなら、もう、俺は間違えない。今度こそ、同僚でチームメイトで、良き親友でいよう」
 そのためなら、どんな正解だってしてやるのに。
「だから最後に、愛してるって言ってもいいか」
 イェーガーは、動かない。

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