もしかして、と願ってしまった。
……一縷の望みをかけて鞄を漁るが、考えるまでもなく折り畳み傘など無い。入れた記憶が無いのだから当然だ。それでも身体は勝手に舞い上がる脳にあっさり失望して、深々と溜め息を吐き出した。一体、どうしたものだろうか。
せっかく今日は二つも白星を得たのに、いや、だからこそなのか、と窓際で憂愁していると、背後から耳馴染みのある声がかかった。
「和谷、どうしたんだ?」
その声の主を聞き間違えるはずがない。自然と硬直しそうになる肩を無理にほどいて、軽薄に笑いそうになる口を無理に窄めて渋面を作る。どちらも意志の成せる技だ。それがどれほど有効かを実際に確かめる術は無いが。
そうして和谷は、極めて精巧な素直さで振り向いた。
「……伊角さん」
「なんか渋い顔してるな」
勝敗表への記入を終えて微笑む伊角の後ろに、その対局相手の奈瀬の仏頂面があった。手酷く負けたのか、その顔には「悔しい!」という字がありありと浮かんでいる。彼の強さなら致し方ないだろうにと疑問と同情を共存させる自身の内心に肩を竦め、視線を伊角に戻す。そしてあくまで自然に、あるがままのように、――願いなど抱えていないように、口を開いた。
「すげー雨降ってきたんだよ」
空っぽの右手で指した窓の外では、暴力的な驟雨が見事なまでに景色を押し潰していた。窓ガラスは雫に塗れ、空に跋扈する雨雲の茫漠さすら観察できない。ほとほと困った季節だ。それは和谷とて十二分に知っている。
「うわ、すごいな」
二人を含め大部分は終局していたが未だ検討している局もあり、洗心の間には大勢の院生が残っていた。これから碁盤と碁石を片付けなければいけないのだ。その間に、少しでも止むだろうか。それともしばらく棋院で雨宿りでもしようか。特段早く家に帰らなければならない理由も無いのだし。
――和谷のそんな逃避思考を遮るように、伊角が隣に座った。漁られた後のある鞄、盛大な溜め息、あくまで自然な渋面を抱える和谷に数秒間目を遣って、優しく、否、――それは伊角の元々の性質であり優しさではないと知っている、つまり――優しいと感じる声色と共に首を傾げた。
「和谷、傘無いのか?」
「ねーよ。天気予報は晴れだったし。伊角さんこそ持ってんの?」
普遍的な問い、そして普遍的な回答と、大いなる愚かさ。打てば響くように、と言えば聞こえは良いが、今の和谷にとっては墓穴を掘っただけに他ならない。伊角は極めて実直に答えた。
「そりゃあるよ。今の時期は持ってた方がいいと思うけどなァ」
突き刺さる、その言葉にひやりとする。
そんなことは、誰だって思うだろう。けれど伊角は、本当にそう、思うだけ。傘を忘れた和谷が何を思って伊角の傘の在り処を問うのか、その先を推量するほどの理屈も無い実直さ。それが有り難くもあり、苦しくもあり、苦しくなる自分が憎かった。
きっと帰ってしまう、という苦々しい瞑目と。
もしかして一人ではなく、という淡い願望と。
不純物ばかり目立つ二律背反が綯い交ぜになって、全てから目を逸らすように、誤魔化すように嘆息した。
「かさばるのが嫌なんだよ」
決して嘘はついていない。
研修が終わり、院生が各々碁盤と碁笥を抱えて準備室へ運ぶのを言い訳にするように、目の前の碁盤を持ち上げその後を追った。
その背に、伊角は朗らかに呼びかけた。
「じゃあ和谷、先に下行ってるから」
「え?」
その意味を咀嚼する前に典型的な感嘆符だけ漏らした和谷に笑いかけ、伊角はさっさと行ってしまった。
それは、幻聴ではなくて。
それは、明らかに示唆していた。
もしかして、の方を。
今日はまだ、一緒にいられそうだということを。そして、和谷の子供じみた願望が、現実足り得えてしまう可能性を。
伊角の言葉を呆然と反芻していると、最後の碁笥二つを持った奈瀬が「和谷、早くしてよ」と急かしてきた。
「あ……悪ィ」
「なに、どうしたの? ボーっとして」
「なんでもねーよ」
「さては今日負けたんでしょ」
「負けてねェし!」
ゴト、と碁盤を片付け部屋を後にする。こんなところで奈瀬と長話をするつもりは無かった。何より階下で伊角を待たせているのだ。
和谷が別れを告げる直前、奈瀬は片頬を上げ、愉快そうに穿った。
「じゃ、伊角くん絡み?」
「っ、はあ?」
そんなまさか、と一蹴するほどの余裕は、今この瞬間には無かった。そもそもそんな瞬間など、永遠に来ないのかもしれないが。
「はーあ。ねえ、偶然ばっかりアテにしない方がいいんじゃない?」
答えに窮する和谷を楽しげに眺めた奈瀬はひらりと手を振り、彼女を待つ院生仲間の方へ足を向けた。気づかれていると思いたくはなかったが、どう考えても内心を推察している口ぶりに肩を落として嘆息する。
偶然。そう、偶然だった。和谷が傘を忘れた日に雨が降るのも、それを伊角が悟るのも、そうして和谷を待ってくれることも。何一つ仕組んだことなど無くて、だからこそまた偶然を期待した願望が頭を擡げて、舞い上がってしまいそうなのだ。それがどれほど不毛なことか、分かっていないわけではないのに。
青い吐息を置き去りにして、エレベーターで一階へ下る。開いた扉の先、売店の辺りを彷徨していた伊角が顔を上げ、莞爾と笑ったのが見えた。その笑みに誘われるように駆け寄りながらその名を呼ぶ。
「伊角さん!」
「和谷。席、空いてるみたいだぞ」
「へ?」
「一般対局室。さっき覗いてきた」
まだ当分土砂降りっぽいし、と伊角は外を見遣る。どの道これでは傘があったところで下着まで濡れて帰ることになるだろう。まだ姿のある他の院生も、大きい傘を広げて帰る者、コンビニまで走って傘を買う挑戦をする者、いっそ濡れてしまおうと開き直る者、そして一局打って時間を潰そうとする者とさまざまだった。
そうして伊角は、右手の折り畳み傘を仕舞いながら告げた。
「止むまで打っていかないか」
その提案に二つ返事で頷こうとして――止めた。
「ああ――でもオレ、今日はあんまり遅くなりたくないんだ」
「そうなのか?」
予想外といった顔で瞬きを繰り返す伊角の正直さに――いや、失礼だとも思うべきか?――引け目すら感じた。最早駆け引きという概念を持っていること自体が悪辣なのではないか? けれども、奈瀬にああも言われてしまっては、後には引けない。
白星二つにねじが緩んだのか、あの忠告が存外響いたのか、あるいは何より、伊角が自分の為に待っていてくれたからか。舞い上がった脳に直結した口は、確かに紡いでしまった。勢いだけで続く言葉は、伊角だけでなく自身までもを驚愕させたのだ。
「だから早碁にして、雨が弱くなったら伊角さんの傘で帰ろうぜ」
もしかして、と願ってしまったこと。本当は隠すべきだった幼なげな願望。
「お前、オレのをあてにしてるな?」
即ち、たった一つしか無い傘を、二人で使うこと。
嵐のようだった天気はようやく静けさを取り戻しつつあった。まだ幾分か服を濡らす程度の強さだけを残した雨粒を一つの傘で受け流しながら、二人で歩いている。青年と少年が使うには少し小さいただの黒い折り畳み傘の下、濡れていない方の肩は触れたり触れなかったりの境界を往復している。飽和がちな湿度とは無関係の火照りを感じながら隣を一瞥してみるが、伊角はこれといった変わりもなく前を向いているようだった。意識しているのは自分だけ。それに対して湧くのは落胆と安堵の自己矛盾で、どちらが正しいのかすら曖昧だった。あるいはどちらも正解で、どちらも誤謬かもしれないが。
そうしてほんの少しだけ和谷が横へ揺れたとき、伊角がふと道路脇を指さした。
「あ、なんか咲いてる」
「なに、どれ?」
視線を向けた先には深い青色の塊があった。傘を持つ伊角につられて――というより他に屋根が無い――近寄ってみると、どうやら季節の花の集合体のようだった。
「紫陽花か」
「梅雨だもんな」
なるほど見事に花開いている、と感心してみれば、その言葉に伊角は小さく吹き出した。
「分かってるなら傘持ってくればいいのに」
「う……」
梅雨だから雨が多く降るのではなく、雨が多く降るから梅雨なのだという屁理屈を構えて内心だけで反駁する。それが傘を持たないことへの返答になっていないのは承知で。
伊角は少し屈んで紫陽花をじっと見つめた。花びらの上をとめどなく流れる水滴を瞳に映しながら小さく呟く。
「オレんちの近くにはあんまり無いんだよなァ」
ただの住宅街だし、と続ける伊角の横顔から、何か遠い憧れを感じた。
「紫陽花って、なんか場所によって色違うよな。なんでだろ」
「ああ、先生が言ってたけど、土が酸性かアルカリ性かで変わるらしいぞ」
「へー、土って酸性とかあるんだ」
「和谷……もう少し真面目に授業受けた方がいいんじゃ……」
「い、伊角さんまでそういうの言うなよ!」
当然ながら、育った場所も環境も年齢も何もかも違うのだ。今どれだけのものを共有したとして、その根底に敷かれた異なる土壌の上に立つ思想は同じにはならない。どんな人間さえ――たとえ自分自身さえも――全て分かり合うことなどできない。
けれどその違いこそが人が人をいとおしく思わせるきらめきで、この世が美しく見えるための色彩を生んでいるのだ。そう思えるのは紛れもなく、隣でやわらかく微笑む穏やかな光のお陰だった。
和谷は伊角に倣って紫陽花を観察した。人間が暮らす街の道路脇という窮屈な場所でも、紫陽花は本分を忘れることなく鮮やかな深い青に色づいている。水滴は次々とその青色を纏って立ち止まり、やがて滴り落ちる。
まるで――。
「あ、今日は早く帰らなきゃいけないんだっけ」
ふと顔を上げた伊角が和谷を傘の中に入れたまま立ち上がる。そんな用事は、と言いかけて、今この状況を作り上げるために選んだ嘘でない嘘のことを思い出した。そういえばそんなことを言った。言ってしまった。けれどそうしなければ、この時間も無かったのだ。
「ああ、いや、まあ、まだ大丈夫だよ」
「でも急がないと着くの夕方になるだろ」
ほら、と伊角の促すまま渋々腰を上げ、鮮やかな道端に背を向けた。
窮屈で温かい空間を共有したまま、あと少しの道程を歩き続ける。
他に行き場が無いという意味では、あの道端の紫陽花と同じだ。窮屈な場所に根を張り花が咲くまで耐えるのも、育った土が違えば違う色になるのも。
伊角と二人、毎週同じ道を同じように通っているのに、ただ同じ傘の下にいるだけで特別な気分になる。それはきっと、呆れたように微笑む顔とか、与えられる気遣いとか、些細な優しさとか、そんな恣意的な解釈ができるいとおしさよりも、二人だけの静謐の空間があるという事実のせいで。
そうして、その事実を手に入れたくて、自分が傘を忘れていることすら願ったのだ。
「さっきのさ」
「ん?」
伊角が語りかける。
「紫陽花。真っ青で、たくさんあって、その上に雨が降っててさ」
「ああ」
和谷はその静かな声に聞き入りながら、努めて明るく相槌を打つ。
「花びらが小さいから、小さい雨粒が乗ってて」
「うん」
それがやがて寄り集まり、一つのしずくとなっていた、光景。
それを見つめる、ただ一人。
「なんか、宝石みたいだったな」
そして差し出された伊角の言葉は、あまりにも陳腐で。
「って、ちょっとクサいか」
伊角自身それを芳しくは思っていないように苦笑したけれど、和谷はそれをロマンチストだと嘲笑うことはできなかった。
「えー、でもさ」
和谷もまた、同じ傘の下にいて、そこに在るものを見ていた。
「オレも、まるで宝石だなって思ってたんだ」
* * *
もしかして、と願ってしまって。
本当は。
傘を持っていないことを、喜んでいた。
そう思っているのが知られたら、軽蔑されてしまうだろうか。それでも彼なら、許してくれるだろうか。
ちゃんと持っていた方が、いいのに。
そうでなければ、なんとかして、なるべく一緒にいたいと願ってしまうから。
なんでもない顔で約束して、なんでもない顔で知らないふりをして。
なのに。
「だから早碁にして、雨が弱くなったら伊角さんの傘で帰ろうぜ」
「お前、オレのをあてにしてるな?」
あまりに都合のいい、言葉と。
「――そろそろ帰れるかなァ」
「和谷、これ、相合い傘になるんじゃ……」
「いまさら固いこと言うなって、伊角さん!」
あまりに近い、距離に。
ざわついた心を誤魔化すため、立ち止まっても。
花びらに乗る滴に、和谷のきらめくような笑顔が反射していたのが見えた。
だから、それは、まるで。
コメントを残す