凪いだ白いカーテンに手をかけてひらりと開く。厚めの窓ガラスに丸いルームライトが反射し、その奥に水平線が伸びている。紺碧色の海にかぶさる低い陽光に小さく手を翳し、早々に荷ほどきを始めた伊角へ振り向いた。
「まだ明るいなァ。着くのちょっと早かった?」
「いや、丁度いいよ。温泉もあるんだろ?」
「そうそう、露天もあるよ」
「いいな、旅館っぽい」
「まァ旅館だからね」
「……確かに?」
明らかに和谷より膨れている鞄に向き合いながら伊角がけらけらと笑った。上機嫌な伊角に思わず笑みが溢れる。カーテンを開けたまま荷物の方へ戻ると、伊角が卓上の館内案内をなぞりながら言った。
「まだ夕飯まで時間あるし、先に温泉入ろうぜ」
「うん、行こ行こ」
「大浴場は銭湯でも入るけど露天は無いからなァ」
「あはは。伊角さん、なんか今日ずっとテンション高いじゃん」
「そりゃあ旅行なんて本当に久しぶりだしさ」
客室を見て回ると、タオルは洗面所にセットで置かれ、クローゼットの中に浴衣が畳まれていた。大サイズの浴衣と羽織りを二人分取り出し畳の上に並べる。八畳の和室に揃う座卓、座布団、浴衣と伊角の言葉通りいかにも旅館といった趣だ。
「ほら、行く前に着替えちゃおーよ」
「そうだな。……あれ、L?」
「なんだよその顔」
「和谷、Mサイズだろ」
「普段はL着てるよ! オレまだ成長期だぜ」
「そろそろ終わってる頃じゃ……ちょっと着てみろよ」
伊角がからかい混じりで広げた浴衣を受け取る。シャツを脱ぎ、右、左と浴衣に袖を通して帯を巻いてみる。身丈はそれほど長く感じないけれども――。
「うん、着られてるなぁ」
「丈はこれでもいいんだけど、肩が……これ、この浴衣が大きめなんじゃねーの?」
「Mにしとけば?」
「Mは短いって!」
「ははは。オレも着るかァ」
伊角も同じく浴衣を広げて自らのシャツに手をかける。
――捲られる裾から、和谷は咄嗟に目を逸らした。
見慣れない部屋の中で視界に映る肌の色。今まで何度も体を重ねているはずなのに、旅先のテンションだろうか、どうにも落ち着かない気分になる。
気をそらすように、だぶついた身頃を無視して帯をぐるぐると巻く。正しい着方かどうかは分からないが何となく形になった気がする。
「んー……まあいっか。伊角さんは? 着られた?」
衿を直し整えたところで顔を上げると、着終わるどころかはだけた前を押さえながら帯を片手に首を傾げている伊角がいた。
「え、伊角さん……?」
「なんか――、こんなにほどけやすかったっけ?」
広がった胸元の空間と白と青の浴衣、うまくいかない気恥ずかしさの滲む苦笑が妙に艶めかしく見えて、和谷は盛大に溜息を吐いた。
「えー…………」
「和谷っ」
やってくれ、と言わんばかりの声色で伊角は和谷の名前を呼ぶ。意図を口にしないのはいつものことで、だからこそどこまでがわざとなのか分からない。恐らくは、すべて無自覚なのだろうけれど。
それを尋ねたくなる気持ちを堪えて、和谷は伊角から垂れ落ちた帯を受け取る。
「もー」
そのまま衿を押さえる伊角の腰に手を回し、帯を巻きつける。……体が近づいて、今日辿った道程を想起するような街や木や潮の匂いが鼻をくすぐった。そこに混じる伊角自身のほのかな体臭や汗の空気に、鼓動が速まる。
……さっき目を逸らした意味があまり無い気がする。
和谷はなんとか平静を取り戻しながら結び終え、手を離してから大きく息を吐き出した。
「――はい、こうやってここで結んだら多分大丈夫」
帯の結び目を幾分か凝視して、伊角は軽やかに笑う。
「ありがとう」
こぼれる声に合わせて袂が揺れ、湯に浸る前の少し硬い髪の毛がゆるりと影を浴びた。まだ明るさの残る空色がガラス越しに差し込んでいる。
そう、これから温泉へ入りに行くのだ。
「伊角さん、脱衣所でまた着らんなくなりそー」
「もう覚えたからいけんじゃないかな」
「えー、ホントに? 最初からオレが着せてあげよっか?」
「やだよ、他の人がいるだろ。ほら、行こうぜ」
入浴用の荷物を手に、伊角は扉へ向かう。
その背にゆっくりと追いつきながら、和谷はその言葉の真意を探って戸惑っていた。
他の人がいない場所でなら、着せるも脱がすもいいのだろうか。
――二人きりの旅先で、どこまで許してくれるのだろうか?
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