七月になり強さを増した日差しは、すっかり梅雨の優しさを忘れてしまったようだった。午前中はまだ可愛げのあった気温も碁会所を出る頃には炎熱を隠さなくなっていた。これで夕方まであと一時間だというのだから、真昼間の天気は推して知るべしだろう。
碁会所が入居するビルは裏通りで、ここから駅までは大通りを歩く必要がある。ビル群によって陰になっていた裏通りから出ると、和谷は手庇で目を眇めてうんざりしたように、しかし心なしか寂しそうに呟いた。
「あっちー。頭焼けそう」
もう少し強ければ日射病になってしまいそうなほどの眩しさはアスファルトに反射し四方八方に散らばっていた。俯くより前を向いた方がいいのかもしれない、とようやく和谷から視線を外したところで。
目の前に、見知らぬ三人の女子が立っていた。
道沿いのファストフード店から出てきたらしい彼女らは、オレではなくオレの隣を注視していた。
「あれ、和谷?」
「和谷じゃん」
「何してんのこんなトコで」
口々に尋ねられ、和谷は手庇を降ろして彼女らを一瞥して、感情のない声で答えた。
「囲碁の勉強」
「えー、そうなんだ」
「囲碁ってどこでやんの?」
「ってかこの人誰?」
和谷の話を聞く気があるのか無いのか、今度はオレの方へ視線が集中する。和谷より若干身長が低い彼女らの方へ顔を向けると、散乱して余計に眩しくなっている日差しが目をつついた。
――誰、と言われても。
どう説明しても彼女らには伝わらないだろうし、恐らく本気で知る気も無いだろう。オレも彼女らが何者なのか知らないし、本気で知る気も無い。それで構わないけれど、何も言わないわけにもいかない。
オレが答えあぐねていると、和谷はそれまでのぶっきらぼうな口調から一変して声を荒げた。
「お前らウルセーよ、この人は碁の友達! それだけ!」
「なにそれ、おもしろー」
「和谷ぁ、明後日テスト返されたら皆でカラオケ行かない?」
「行かねーよ」
じゃあな、とだけ彼女らに言い捨てて、和谷はさっさと歩き出した。一瞬だけオレの方を振り向いて、頷く。行こうぜ、の合図だ。
早足で追いかける視界の先、立ち並ぶビル群の上で狭い青空が夏を告げ、入道雲の隙間を飛行機雲が横切ってゆくところだった。右から左上へ斜めに上昇する飛行機を目で追いかけようとして――遮られる。
和谷に追いつくと、随分眩しいのか眉根を寄せて顰め面をしていた。青々とした快晴なのに、そんな顔では勿体ないだろう。
オレは飛行機の行く先を遮る鍔を掴んで、キャップごと持ち上げた。
「これ貸してやるよ」
「え? いいの?」
「うん、邪魔だし」
「なのに被ってきたんだ」
おかしそうに笑い出す和谷の頭に、すっぽりとキャップを被せる。知らないブランドのロゴマークが全面に入った真っ白のキャップは、いつの間にか誰か――多分母親だろう――が買ってきて玄関のポールハンガーにかけられていたものだ。ファッションのことはよく分からないが、少なくともオレより和谷の方が似合う気がした。
「暑くなるから被っていきなさい、って親に言われたんだよ」
「……もうちょっと、伊角さんに似合う帽子があると思うんだけどなァ」
やはり和谷もそう思っていたらしい。なら朝会った時に言ってくれてもいいのに。いや、和谷は言わないか。
「あ、ぴったりだ。ありがと、伊角さん」
それでも、顰め面を止めてにこりと笑まれては、言い返すことも無くなってしまう。和谷はキャップも様になるんだなあと眺めてみる。
「あのさ、伊角さん……」
――そこで、ようやく気がついた。
「無い!」
「え?」
「ここについてたはずだけど……無いな、なくした?」
「え、なに、どうしたの?」
和谷に被せたキャップの側面をまじまじと見つめるが、無いものは無い。いや、碁会所で脱いだ時はあったはずだ。となると、碁会所からここまでの道のどこかに落ちているのだろうか。
「ピンバッジがついてたんだ。弟が買ってきてつけた、って言ってた……」
「バッジ……? ああ、朝はキャラクターがついてたっけ」
「なくしたら怒られる……ごめん、ちょっと探してくるから、先行ってて」
「え、オレも探すよ!」
そう言って振り返った和谷は、苦虫を噛み潰したような顔をした。太陽の反対方向、来た道のずっと奥に、こちらに気づかず何事かを喋りながら歩く先程の彼女らがいた。
「……和谷、あの子達、知り合い?」
「知り合いっていうか、ただのクラスメイトだよ」
ただの、と言う割にはやけにつっけんどんな気もしたけれど、院生は碁に関係の無いことをあまり詮索しない風潮があるし、お互いの学校生活についてもなかなか語らない。そういう人間関係もあるのかもしれない、と自分を納得させつつ、もう一度提案する。
「オレ探してくるから、先行くか……どっかで待ってて」
「……ああ、ごめん。あの辺でちょっと、待ってる」
和谷が指差したのは、幅広く舗装された歩道に植えられた街路樹とぐるりを取り囲む木製のベンチ。駅から少し離れて佇むその大樹は、枝葉の広がりに反してベンチの幅が狭いからか人影が無い。
「ごめん、伊角さん」
それだけを言い残し、和谷は大樹へ向かっていった。
さて、どこから探したらいいだろうか。和谷に渡した時点で無いということはそれ以前で、道路に落としたら結構な音が鳴ったと思うけれど覚えが無いということは碁会所かもしれない。念のため地面をきょろきょろと見回しながら来た道を戻るも、道路にはそれらしい影はない。
「あれ、さっきの。和谷の碁の友達の人?」
「……」
碁会所へ向かう道中、コンビニの手前で声をかけられる。
さっき出会った女子の、三人いたうちの一人だ。他の二人は不在らしい。それしか感想はなかった。
彼女は初対面であることなど意にも介さない様子で問いかけてくる。
「何してんの? 和谷は?」
どうやらオレに用があるわけではないらしい。それはそうか。
和谷に用があるのだろうか。
けれど、和谷は、顔を顰めていた。
それが彼女らの存在ゆえかは、分からないけれど。
「……帰ったよ」
そうして、自分の口から出た嘘に気づいて、動悸がした。
なぜ和谷が帰ったと、嘘をついてしまったのだろう。
彼女らから、和谷を遠ざけるため?
それは一体、何のために?
――誰のために?
オレの言葉に、彼女は特に訝しみもせず頷いた。
「あ、そう。残念」
「……何か用が?」
三人のうちの一人は肩を竦めて、コンビニの店内を指差した。
「あの子がね、和谷を応援したいってお菓子買いに行ったのよ。ま、学校で渡せばいいんだけどさ」
何でもないことのように告げる彼女の前で、雷に打たれたように硬直した。
ただのクラスメイト。
和谷を応援したい、クラスメイト。
その言葉の先を、詮索するべきでは、ないだろう。
けれど、指差された店内で、上機嫌にお菓子をレジへ差し出す一人の女子は、随分と優しい顔をしていた。
「碁の友達の人は何してんの?」
オレにも分かるくらいの『友人を待っていて暇だから』といった程度の温度で投げかけられる言葉に、ようやく我に返る。
「落とし物したんだ。ピンバッジ。見てないかな」
「分かんない。道には無かったと思うけど」
少しの空白ののち、コンビニから二人の女子が出てくる。彼女らはオレを見てはっとしたように辺りを見渡した。
周囲には、誰もいない。
「和谷、帰ったってさ」
「あ、そうなんだ……」
肩を落とす一人と、まあまあと励ますもう一人。落胆とはこういった姿を表すのだろう。
オレは内心で独りごちる。
……ごめん。
誰に、何を謝ったのかも分からないけれど、とにかく、そう思わずにはいられなかった。
「じゃあ」
居心地の悪さから逃げ出すように、三人に背を向けて碁会所のビルへ向かう。
日差しに慣れきっていた目は、陰った裏通りを余計に暗く感じさせた。
結論から言うと、ピンバッジは碁会所にあった。
オレの座っていた席を覚えてくれていた店主が、オレが店に入るなりピンバッジを渡してくれたのだ。脱帽して入店したはずなのに、と尋ねたところ、あんまり似合っていない帽子の白さとそこについていたキャラクターの珍妙さがかなり記憶に残っていたらしい。喜ぶべきか憤るべきか分からない。
なにはともあれ目的を達成し再度碁会所を出て大通りへ抜ける。彼女らはまだ屯しているだろうか、と自然と重くなる足とは裏腹に、どこにもその姿は見当たらなかった。そもそも今日会ったのも偶然なのだ。彼女らにも予定があるだろう。
そう思えば、むしろ待たせている和谷の元へ急がなければならない。本当ならこの後オレの家に寄ってもらう予定で碁会所を早めに切り上げたのだ。
――和谷は、なんだか、ずっと一緒にいる気がするな。
院生になってからの付き合いという意味では、もっと長い人だっていたはずなのに。どうしてこんなに、和谷と一緒にいることが普通になっているのだろう。
けれど、ずっと一緒にいたつもりでも、和谷の他のことは何にも知らないのだと、そう言われた気がした。
何にも知らないのに、嘘をついた。
足が急く。早足が、駆け足に、速くなって、早く顔が見たくて。
開けた場所から、和谷が向かった大樹のベンチが見えた。
駆け寄ってみると大樹は案外大樹ではなくて、少し背の高い街路樹程度だった。遠くからは大きく見えても近づくと見えない木の伝説とかあったっけ、と無用なことが脳裏を過る。その街路樹のベンチで、和谷は寝ていた。
白いキャップを目深に被り、腕を組んで座ったまま寝息を立てている。オレが碁会所へ向かって戻ってくるまでで体感十五分程度だと思ったが、待ちくたびれてそのまま寝てしまったのだろう。
まだ斜め上に居座っている太陽はほんの少しだけ弱くした日差しを街路樹に当てていた。幹は大きくないが枝葉は広く、その隙間から差す陽光が木漏れ日となって和谷の被ったキャップに落ちている。
その隣に置かれている箱に、オレは見覚えがあった。
『和谷のがんばりが日の目を浴びますように 三年二組――』
丸い字の手書きのメモが貼られた、お菓子の箱。
本当に、何にも、知らないのだ。
彼女らが和谷に何を思っているのかも、和谷が彼女らに何を思っているのかも。
オレが和谷に、何を思っているのかさえ。
それでもなお、嘘の無意味さに向き合えない。
日の目を浴びること。
プロになること。
そのために、オレ達は院生を選んで、選び続けている。院生での関係は碁の繋がりでしかないと、分かっている。分かっているはずなのに。
オレが知らない和谷の多さを、分かってはいない。
木漏れ日がキャップに落ちる。枝葉も、帽子も、和谷が浴びるべき日の光りを遮っているようだった。それは別に悪意ではなくて、むしろやるべきことの一つであるのに、無性に悔しかった。
ともにプロになろうという願い。お互いを高め合い碁を極めるという誓い。
その道の中ではきっと、一緒にいられるだろう。今こうしているように、一緒に碁を打つ人生を歩んでいける。
けれど本当は、人生というのはそれだけではなくて、オレの知らない和谷が、沢山ある。
碁はもちろん、それ以外でも、出来るだけ沢山の光りを浴びてほしい。和谷は人付き合いが上手いから、なるべく多くの人に認められて、そうして幸福になってほしい。
その願いは、嘘ではない。
けれど、それと同じくらい、和谷の放つ光りを隣で浴びたいと思ってしまう自分がいる。そうして、嘘をつく。
……なんて、浅ましいんだろうか。
穏やかに吹く風にさらわれないよう、和谷からキャップをそっと外して自分に被せた。
ざわめいた木の葉の間から、大きな光りが和谷の頭に直接落ちる。
まだ起きないだろうか、と目線を合わせようと屈んで、そうしてまた、気づく。
ああ、大きくなったな。
出会った頃は小学生でほんの子供のようだったのに、今ではしゃがみ込まなくても少し屈むだけで同じ目線になる。隣で歩くときは気づいていなかった成長に、なぜか胸が苦しくなる。
何にも知らないし、何にも分かっていない。
オレに分かるのは、和谷の碁だけ。
和谷の碁の、力強くて、冷静で、でも、一瞬だけ臆病になるそのとき、オレは和谷を分かった気になっているのかもしれない。
たとえば、和谷にとってのただのクラスメイトが、応援してくれるクラスメイトになって、懇意になって、もっと強い繋がりを得たとき。
オレは、和谷と一緒にいることが当たり前ではないと、諦められるだろうか。
和谷が浴びる、オレの知らない光りを、見つめることができるだろうか。
「……んあ、伊角さん?」
キャップを取ったからか木漏れ日が増したからか、髪にも顔にも落ちた光りの眩しさに目を瞬かせて、和谷が眠りから醒めた。
「おはよう、和谷。寝不足だったのか?」
「ああ、寝ちゃってたんだ……ごめん、昨日までテスト期間で一夜漬けでさ」
「そんなんで明日の院生研修大丈夫か?」
「ヘーキだよ」
和谷は目を擦りながら大きくあくびをした。オレは隣に座り、置かれていたお菓子の箱を手渡す。
「これ、さっきの女子が置いていったみたいだぞ」
「何これ? ……ふーん」
メモをさっと一瞥してから、ばりばりと包みを開ける。チョコレート菓子だったが日陰に置かれていたからか溶けてはいない。感慨なさそうにお菓子を頬張る和谷は、どこか憮然としていた。
「学校でお礼くらい言えよ」
「言うよ、そりゃ」
「……なんで不機嫌なんだ?」
ぱき、と噛み砕かれる音が響いて、和谷は俯いた。
「――オレ、今はそういうの考えてないって、この前言ったばっかだったのに」
風が、大きく吹いた。
木の葉が、服が、髪が、広がるようになびく。
木漏れ日が小さくなり、和谷の顔に影がかかる。暗がりの中で、昔より目立ち始めた喉仏だけが白かった。
和谷は、俯いたまま目を伏せて、呟いた。
「何にも知らないんだ、あいつらは」
でもさ、和谷。
碁でしか関われないオレよりもっと和谷を分かってやれる誰かが、現れるかもしれない。
邪魔な木の葉も帽子も取り去って、沢山の光りを与えてくれる誰かが。
お前はいつか、オレから離れて、誰かに想いを抱いて、一緒に生きることになる。
オレはそれを、祝わなきゃいけないんだ。
だから。
「和谷の碁に関してだけなら、オレが一番知ってるかもな」
せめてそれだけは、と願って。
精一杯の虚勢と止んだ風の中で、和谷の笑みが見えた。
強くて、静かで、優しい――木漏れ日のような、笑顔。
「うん、伊角さんが一番だな」
その笑顔だけは、どうか他の光りを浴びませんようにと、祈りながら。
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