薄明のペトリコール

 もうどこにも行かなくていい、と思えるのは幸福なことだった。六畳の真ん中に置かれたテーブルの上に近所で買った弁当を広げて、別れのない夜に微笑む。和谷はパックの寿司――まぐろの入った少し高い十貫セットだ――をかなりの速度で平らげ愉快そうに畳に寝転んだ。
「食べてすぐ寝るとよくないぞ」
「親みてェなこと言うなって」
 碁を打つために和谷が借りた部屋。必要最低限の生活物品と寝具、そして碁盤と碁石しか置かれていない空間で、今はただ二人きり。そして時折窓を叩く雨の音だけが、やけに鮮明に響き続けている。
 降りしきる雨は、雑踏のように、潮騒のように、空気を遠くへ連れてゆく。黙々と食べ続ける一人分の咀嚼音だけでは、この部屋の静謐を掻き消すことができなくて。
「……やっぱり伊角さん、具合悪いんだろ」
「大丈夫だよ。腹一杯なだけ」
「昼飯だってオレより食ってなかったじゃん」
「お前が食い過ぎなんじゃないか」
 和谷がむくりと起き上がり手を伸ばしてくる。ひた、と額に触れた手は珍しくひんやりと冷えていて、和谷でも冬には勝てなかったか、と思ってみる。
「別に熱は無いだろ」
「うーん……」
 残りの惣菜をまとめて口に放り込み、適当に噛んで嚥下した。どれが何の味かも分からない。今なら海水を飲んでも味がしないかもしれない。いや、塩っ気はさすがに分かるだろうな。
 弁当のゴミを片付けながら、未だ不信な目をする和谷に――決して言い訳ではない――弁解をする。
「元々疲れてたんだろうな。結構スケジュール詰まってたし、それが今日に当たっただけだって」
「だったら尚更、無理して来なくてよかったのに」
 口を尖らせる和谷は、言葉とは裏腹に寂しげに眉根を寄せていた。その寂しさが象る部屋の静謐は、心をざわめかせるに足る感情を孕んでいる。
 和谷の顔を曇らせているという罪悪感が向かう先は、どうせ自分なのだ。いつだって。
 役目を終えたテーブルを折り畳んで部屋の隅へ運ぼうとすると、和谷がひったくっていってしまった。その程度問題ない、と反論する間もなく。仕方がないので、積まれた布団の塊に寄り掛かった。
「オレが和谷と打ちたかったんだよ」
 柔らかい背中の感触に包まれながら、沈み込んでいくように体重を預ける。深い深い海の底へ吸い込まれるように、身体のどこかから重力が染み出す。そうして至る前に、くすぐったくもある和谷のささめきが耳に届いた。
「本当に?」
 閉じかけていた瞼を開いて、隣に肩を寄せる和谷の顔を見上げた。いつもは視線の下にあるその顔は今、逆光の影を纏って暗がりの奥で微笑んでいる。
「本当に、打ちたかっただけ?」
 なんと答えればいいのだろう。なんと答えることを和谷は望んでいるのだろう。ほんのりと靄がかかった思考でぐるりと考えてみても、ロマンのある言葉は見つからなかった。
 何もかもを疲労のせいにして、静かすぎる部屋のせいにして、そっと口を開いた。
「本当は、違うかもな」
 その一言だけで、和谷は晴れやかに破顔した。普段の対局では負ける気がしないが、こういったときの読みはいやに深いのだ。
 打ちたかったという言葉を嘘にしないために、浮上するように身体を起こそうと手をついて、他の熱を指先に感じた。
 和谷の手に、触れていた。それだけなのに、ただそれだけなのに、血潮の流れを明確に意識した。雨音を追いやるほどの血流が全身を支配する。鼓動と、熱と、呼吸。平静を装おうとして、なのに、手が、動かない。
 和谷は何も言わずに、じっとオレを見つめていた。揺れたまま動かない瞳が問いかけてくるようだった。
「あ……」
 ゆっくりと、確かに、和谷は手を握った。包むように、それから、撫でるように、そして、捕まえるように。
「伊角さん」
 優しい声色で、和谷は呼ぶ。
 応えるように、握り返した。
「ねえ、伊角さん」
 自然と目を閉じて、口を閉じて、体温だけを感じ取ろうとしていた。なんの意識もしていなかった。ただそうするものなのだと、信じ切っていた。
 和谷の顔がすぐそこまでやってきて、すぐそこまで止まって、吐息だけが聞こえた。おそるおそる目を開くと、和谷は朗らかに笑んでいた。
「……和谷?」
「伊角さんは、オレのこと、好き?」
「…………えっ?」
 選択肢が一つしかない問題ばかり目の前に並べられる。分かり切っているのに、致命的に明らかなのに。あるいは、だからこそ、なのだろうか。
 何度繰り返しても応えることに恐れを抱くからこそ、何度でも和谷は問うのだろうか。
 応えることが恐ろしければ恐ろしいほど、その分和谷を好きだと認めることになるから。
「うん……そう、だけど」
「違ェよ! もう、伊角さんのバカ」
「バ、バカって、お前なぁ……わっ」
 和谷は勢いのまま、恐るべき体幹でオレを抱き起こした。否、その手に引かれて自分で起きた、とも言える。
 いつも通りの距離感で目線の下にいる和谷は、挑戦的な視線を伏せて、瞼を閉じて顔を向けた。祈るように整った表情で、とんでもないことを告げる。
「言えないなら、伊角さんからキスしてよ」
「な、なんでそうなるんだよ」
「だって!」
 驚くより先に、抱き締められる。その熱が和谷のものだと認識して、そうしておそるおそる抱き締め返す。窓を叩く音の漸減からようやく雨が止み始めたと気づく。それをきっかけに、靄がかっていた脳内が次第に闡明になっていくようだった。
 和谷も、恐ろしかったのかもしれないのだと。
「だって……寂しいじゃん」
 そう言って拗ねる和谷のことを、本当はずっと分かっていたはずなのに。
 和谷の望む自分の姿、というものを計りかねていて、不用意に求めてしまえば幻滅されてしまうのではないかと不安で。
 そんな浅はかな恐怖で大人ぶる自分自身に、また罪悪感が湧く。いや、もしかしたらそれは罪悪感などではなく、傷つきたくないだけの自家撞着かもしれなかった。
 結局のところ、いつだって。
 自分のために、和谷を苦しめている。
「ごめん――、好きだよ、和谷。お前が好き」
「伊角さん……」
 全部そうだった。芳しくない体調でも和谷の部屋へ訪れるのも、悪天候に思考を曇らされるのも、ただ和谷に会いたくて、ただ一緒にいたいだけで強行した結果なわけで。
 ――それを和谷が心配しないはずないのに。
「オレも、大好き」
 喜色満面の和谷の頭を撫でる。
 相手に受け入れられたいと思うことは、相手を受け入れようと思うこと。
 相手を受け入れようと思うことは、相手に受け入れられたいと思うこと。
 オレが受け入れられたいと願うなら、和谷もまた、同じなのだ。
 不安も恐怖も幻滅もなにもかも錯覚で、和谷はきっと、ずっとそれが錯覚だと知っていた。
 ただひたすらに、唯一になりたかった。
 互いにそう願っていると、認めてもよかったのだ。
「和谷」
「うん?」
「目、閉じて、ほしいんだけど……」
 声が震えてやしないかと恐怖ではなく羞恥に怯えながら願ってみるも、和谷はとても楽しそうにけらけらと笑った。
「嫌だって言ったら?」
「しない」
「え、嘘だよ、閉じるって」
 祈るようなさっきの顔とは違う、静謐を信じ切るあどけない表情が目の前にあった。伏せられた瞼と穏やかに結ばれた唇に見惚れては、少しずつ近づく。
 この顔で迫られて避けられるわけがないと、ずっと受け入れる側に甘んじていた。和谷の好きにさせようという優しさを盾にした怯えを、もう和谷を手放せないと認める覚悟を、唾と一緒に飲み込んだ。
 あるいはもうとっくに、和谷はオレを手放す気など無かったのだろう。
 潮騒のような血の流れと、嵐のような鼓動の先で、初めて、不意打ちでないキスをした。

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