あなたを望む晦明

 扉を開けた瞬間うだるような熱気を浴びた和谷は、長い長い溜息を吐いた。
「あっちー……」
 ようやく、退屈な日々が一時停止した。一体何の理由があって何時間も勉学に向かわなければならないのか、全くもって理解できない生活にはほとほと嫌気が差している。やっと夏休みが訪れたことに歓喜しつつ自室の窓を大きく開け放つと、共感したのか上框から吊り下げられた風鈴が小さく鳴いた。[[rb:霽 > は]]れた夏空を待っていたように。
 昨日は、師匠である森下九段の家で碁を打った。プロ試験の予選が既に始まっている今、次に棋院に行くのはプロ試験の本戦が始まってからだ。人と碁を打つ予定は――実力を問わないネット碁を除けば――数日は無い。また碁会所を回ってみるか、と椅子に腰掛けながら思惟したところで、ふと、頭に浮かんだ顔。
 伊角さんはどうしているだろう。
 碁も打ちたいけれど、それ以上に、あの優しい言葉が、穏やかな声が、少し天然な笑顔が欲しかった。三つも年上の高校生なのに、平々凡々な学校や稚拙なクラスメイトの会話を聞かされるよりもよほど居心地の良い場所。一緒にいるだけで、話すだけで高揚してしまう人。
 こんな時にさえ真っ先に思い浮かべてしまうくらいには、和谷は伊角に思慕を抱いていた。――伝える気は、さらさら無かったけれど。
 和谷は伊角と過ごしたいと望んでいて、いつも伊角はそれに応えてくれる。それだけでも充分幸福なことだった。
「伊角さんに会いてェな……」
 ふと、口をついて出た言葉にはっと我に返る。
 今は囲碁以外のことに妄執を抱く余裕は無い。和谷も、勿論伊角もそうだろう。今年こそ受かる。その言葉を、もう何度言い合っただろう。悲しみ傷つき立ち直った数だけ、伊角に抱懐する感情が闡明になった。
 だからこそ、今を乗り越えなければ何も始まらないのだ。そう分かっている。分かっていても、一度[[rb:煢然 > けいぜん]]として発された呟きが真実だと気づけば、ただ待っていても寂寥感が揺曳するだけなら、じっと引き籠もっているのも性に合わない。
 和谷は窮屈な学生服を脱ぎ捨てると手早く半袖のシャツと膝丈のズボンに履き替え、部屋を飛び出した。階下の電話を手にすると、指が覚えているままに番号を押した。
 一、二、三コール。
「――もしもし?」

 * * *

「伊角さん!」
 姿勢の良い白皙長身を見つけ、大きな声で呼んだ。はっと気づいた伊角は改札を抜け、真っ直ぐに向かってくる。
「和谷、いつも早いなァ。オレも結構すぐに支度したんだけど」
「別にそんな待ってないぜ。オレんちのが近いし」
 そっか、と納得する伊角を横目に少しくたびれた足首で回り、隣に並ぶ。出逢った当初は頭二つ分は低い身長だった和谷も、今は首を傾ける程度で伊角の瞳が覗き込める。
 出口から路地へ進むと、ビルの合間から透き通った空と積乱雲がしなだれていた。眩しさに目を細めた手前で、伊角が微笑む。
「変な顔」
「るせー」
 涼風が通り抜け、二人の髪をなびかせる。爽やかに、軽やかに。揺れる髪の向こう側から和谷を見つめる伊角の視線がやけに熱を帯びていて、どきりとした。
 伊角さんも、少しばかりは、会えて嬉しいとか、思っていてくれたりしないかな、と。
 希望的観測で胸を躍らせながら、古びた貸しビルの通りを歩いてゆく。
「あんまり弱えと腕鈍るかな? なんて」
「あの口ぶりだとおじさん達も結構強そうだけどな……」
「弱気になったら勝てるモンも勝てねえって」
 洪は進藤との対局の翌日に帰国したと聞いたが、彼以外にも強者はいるはずだ。韓国人の多い碁会所とはいえ、アマチュアにあっさり負けているようでは到底プロを目指しているなど口に出来ない。半分尻込みをしている伊角を煽るように、[[rb:完爾 > かんじ]]と笑った。
「そうだ、伊角さん、白星多い方が帰りにマックおごり、でどう?」
「和谷のが量食うんだから不平等じゃないか」
 なんだかんだと言いつつ了承してくれるのが伊角の心根の優しさだと思いつつ、それに甘えている自分も認識していた。へへ、と笑みを溢し、碁会所の看板を確認して中へ足を踏み入れた。
 自分を見る伊角が、後ろから着いてきてくれていることに、喜びを抱きながら。

 * * *

 夕暮れが宵を連れてくるのを車窓から眺めていた。つい先刻まで隣で名を呼んでいた和谷は、もう居ない。次会えるのはまた対局場だろうと思うと、弾んでいた伊角の心に憂鬱とした気持ちが影を落とした。
 いつも通りだった。別れ際、じゃあまた、と大きく手を振る和谷に伊角は小さく振り返し、ホームの階段を駆け上がる姿を見送った。その瞬間、どうしても心淋しさがよぎる。二人でいようと声をかけてくるのはいつも和谷で、それに応えるしかできないのに、その背を見るだけで胸が締め付けられるようだった。
 今日の和谷は、強かった。
 伊角の心に去来するのは、和谷の成長。去年より、半年前より、めきめきと実力をつけている。それが嬉しくもあり、恐ろしくもあった。
 和谷が三度とプロ試験を落ちたのは、単純に合格者に対し実力が半歩足りていなかったからだろうと伊角は推測していた。前を見据える意志、自分自身への信頼、そういった和谷の心持ちは感嘆するほど強い。だからこそ、そこに実力が伴ってきたとき和谷は受かるだろう。
 そして今年は受かると意気込む和谷は、伊角に負けながらも笑った帰り道、全く同じ熱量で全く同じことを伊角にも言った。
「今年こそ合格しようぜ、伊角さん」
 その笑顔をいとおしく思った。
 それこそが、伊角が和谷を恐ろしく思う理由だった。
 和谷が思うほど、伊角は、信じる強さを持てない。碁の実力に対してではなく、和谷のように自身を奮い立たせるための自信が無かった。
 昏がりが包む街の景色をぼんやりと網膜に映しながら、ただひとつ感じる。
 和谷が恐ろしいのではない。和谷の期待を、信頼を裏切ってしまうかもしれないことが恐ろしくて、そんなことを考えてしまう自分が情けなかった。和谷の優しさを受け止めきれず幻滅されることが、怖くて仕方なかったのだ。
 あるわけない、と今の自分に言えるだろうか。
 あるいは、和谷がいなくても、自分を信じられるだろうか。
 どちらにせよ、伊角を昏がりから引き上げて笑いかけられるのは、和谷しかいなかった。今ここにはいない和谷しか。
 別れの心淋しい気持ち、胸が締め付けられるように切なくなる気持ち、思い出すといとおしくなる気持ち、嫌われたくないと恐れる気持ち、そして、笑いかけてほしいと願う気持ち。
 数多の苦しさを抱いては、それに気づかないように、静かに、静かに息を吐いた。次の駅で降りるまでに全て吐ききってしまいたいと。そうでなければ、思うことさえ許されないだろう。
 和谷に会いたい、なんて。

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