「おかえりー、和谷」
その光景に唖然としたまま、口内が乾いていくのを感じた。
「い、伊角さん!?」
部屋の中央で穏やかに笑みを浮かべているのは間違いなく恋仲の伊角本人で、伊角には合鍵を渡しているのだから部屋に入ることは可能なのだが、とはいえ何の連絡も無く和谷の一人暮らしの賃貸で座していることに驚愕を隠せず立ち尽くしていた。
「ほら、中入れよ。飯食ってきた?」
「え、あ、うん……」
促されるまま空返事で靴を脱ぎ、伊角から少し離れたところへ腰を下ろす。中身のほとんど無い荷物が小さく音を立てた。
凝っと和谷の顔を見つめる伊角に、どこか居心地が悪くなる。
「伊角さん……? なんかあった?」
たじろぎながらもようやく絞り出したのは、あまりにありきたりな問いだった。
「いつもは連絡くれるじゃん。どうしたの?」
「……和谷は、オレが来たら迷惑?」
眉を下げ困ったように視線を向ける伊角に、大袈裟なほど首を横に振りながら答える。
「迷惑じゃない! 嬉しい! ただ、伊角さんらしくなくて……」
その時、和谷は気づいた。
伊角の頬が普段より明らかに紅潮していることに。
伊角の瞳が漣立つ湖のように揺蕩っていることに。
「伊角さん……まさか」
「和谷、オレ……」
慎重にとった距離を、伊角は覆い被さるように縮めてくる。
唇が、近づく。
吐息がかかる距離まで。
――そして。
「伊角さん、酒くさい!」
「えっ」
重なる直前、和谷はその身体を押しのけた。
よくよく見れば重たそうな瞼や重心の定まっていない姿勢、荒い息遣いとそこから感じるエタノール臭がはっきりと表していた。
「さては酔っ払ってオレの部屋まで来たな!」
「わ、和谷ぁ……」
肩を落とし、押しのけた和谷の腕に縋り付くように手を伸ばす。いつもひんやりとしている伊角の手は、今夜はどうにも熱っぽかった。
「普段全然飲まないのに……誰と飲みに行ったの?」
「あ、桑原先生がね……」
「あーっもう!」
親交会だなんだと伊角は滔々と口にするが、一方の和谷はあのジジイ、と口にしたくなる気持ちをぐっと堪える。焦点の合わない目で悄然としたまま和谷へ視線を向ける伊角を一度抱き締め、そして立ち上がる。
「とりあえず、水飲んで!」
和谷の部屋にある数少ない食器であるマグカップの一つを棚から拾い上げ、蛇口を思い切り回す。ざあと音が立つ。ものの数秒で溢れんばかりになったカップを手渡すと、伊角はほどけたように笑った。
「ありがとう、和谷」
酔っていると分かっていても、冷静じゃないと知っていても、紅潮した頬でやわらかに微笑む伊角は煽情的だった。
駄目だ。
和谷は自分にそう言い聞かせながら、大人しく水を飲み干さんとする恋人を眺めていた。赤らんだ肌で喉仏を上下させる姿に劣情を抱きそうになり、慌てて目を逸らす。
「ハァ……オレも、水飲も……」
伊角に渡したものと色違いのマグカップを手に、今度は静かに水を溜めた。水面に映る自身の表情の険しさに溜め息が出る。
伊角の傍へ座ろうと振り向くと、先程まで上機嫌だった顔が俯いて項垂れていた。
「伊角さん?」
カップを置き去りに、伊角へ駆け寄る。とうとう嘔気まで催したかと覚悟するも、顔を上げた伊角は、赤くなった肌と反対に悲愴な表情をしていた。
「わ、和谷……オレ……」
「ど、どうしたの? 吐きそう?」
おろおろと居場所の定まらない様子で和谷を見つめる伊角に焦心苦慮し、意味もなく頭を撫でる。その手のひらに少し落ち着きを取り戻し、伊角はしどろもどろながらも口を開く。
「ここに押しかけて、キ、キスしようとしてた……よな……? その、和谷、全部酒のせいだから、いや、オレが悪いんだけど、怒らないで……じゃなくて、嫌わないでほしい……」
歯切れの悪さは酔いが醒めてきたことによる恥じらいの現れらしく、先程まで纏っていた甘ったるい雰囲気はすっかり鳴りを潜めてしまっていた。
酔いやすく醒めやすい分かりやすい体質に、和谷は唸り声を上げる。――ついさっき自分を押し留めようとしたばかりなのに、耐えきれないな、という自身への嘲笑。
その声が自分への叱咤の感情だと思い込んだ伊角は、更に縮こまるように両膝を抱いた。
「ごめん……和谷……」
「違う違う、怒ってねェし嫌わないよ、伊角さん!」
「でも……」
自分より高い背丈で小さくなった伊角を、両手を広げて思い切り抱き締める。首元にうずめた唇で、そっと囁いた。
「伊角さんがかわいすぎて、心配なんだって」
「かっ……」
見なくても分かるくらい赤くなった頬の温度を感じて、和谷はその首筋に触る程度のキスを落とす。ゆっくり身体を離すと、想像以上に動揺した伊角の視線が和谷の頭の先から胴を行き来していた。
「なに?」
「……和谷って、結構、大胆だよな……」
その言葉に思わず吹き出す。不思議そうな顔をした伊角に、和谷は優しく笑いかけた。
「今日の伊角さんが言うことじゃないけどな」
硬直する伊角の頬にまた一つ唇で触れ、穏やかに尋ねる。
「どうする? 酔い醒めたから帰る? それとも、」
それでいて炯々とした光りを瞳に宿し、射抜くように見つめる。
「伊角さんのしたいこと、する?」
情炎の瞬きを浴び、また自身も再び擡げたそれに従うように、伊角は肯定の代わりに唇を重ねた。
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