「あーあ、もう、飲み過ぎなんだよ、大丈夫?」
春先のなめらかな風が頬を撫でた。ほんの少し暖かさを取り戻した街は、それでも徐々に光芒を消してゆく。最後まで飲み会に参加していた他の人達と別れ、未だ足取りの覚束無い伊角がよろめくのを支えた。
「大丈夫大丈夫、今は、うん、ほら」
伊角の祝賀会とはいえ机に突っ伏してしまうほど飲まされていた時はどうなることかと思ったが、代謝が早いのか和谷が大量に飲ませた冷水のお陰か、自力で歩き会話が出来る程度には酔いが醒めてきたらしい。
ふらつく伊角が上機嫌で歩き出すのに合わせて和谷も後を追う。隣にいなければ危ない、が半分、まだ隣にいたい、が半分で。
「和谷、終電間に合う?」
「もー終わってるよ」
大通りの暗がりの下で困ったように笑う伊角の横顔を、通り過ぎる自動車のライトが一瞬だけ照らした。
「奇遇だな、オレも」
その眩さに目を細め、肩を竦める。
――誰のせいだと思ってるんだか。
「だろうな」
そして、ふっと笑いがこぼれた。
「じゃあ伊角さん、どこに向かって歩いてんの?」
「あ、こっちは……駅だな……」
「意味ねーっ!」
和谷は大いに呆れ、それから二人揃って哄笑した。いくら人通りの少ない時間とはいえ目立つだろうが、構わなかった。
「どうする? 歩いて帰る?」
「しんどいなァ」
「毎度年寄り臭ェなあ、まだ二十代だろっ」
「お前はまだ近いからいいけどさ……」
溜息を吐く伊角が顔を上げるのに合わせて、今度は和谷が歩き出す。
駅には交わらない、大通りを外れた横道に入る。伊角は特に疑問を呈することもなく追いつき、先程までと同じように隣に並んだ。
和谷が居住する賃貸アパートは市ヶ谷駅から十分ほど歩いた場所にある。この豊島区から酔っ払いのペースで歩くとなると一時間以上かかるだろうが、帰れないこともない。
とはいえ、そうする気にはならなかった。
「じゃあどっか入る?」
繁華街を少し離れると途端にネオンの光量が減るが、道沿いには深夜営業の居酒屋やバーがあり、人の話し声がうっすらと街を漂っている。
春の宵はひんやりと冷たく、けれど柔らかく煌めいていた。
「いやいや、お互いこれ以上飲んだら倒れるぜ」
月光と街灯が逆光を作り、伊角の頬の紅さを際立たせる。穏やかで、清らかで、けれど大人びた微笑み。
その顔をずっと見ていたくて、歩き続ける。
「ま、オレが倒れたら伊角さんが介抱してくれるもんな」
「そうだな、すぐタクシー呼んで詰め込もう」
「薄情ものー!」
和谷の抗議に伊角はけらけらと笑い声を上げた。
「ははっ、一緒に行ってやるって」
「ホントかなァ……」
「ほんとほんと」
冗談めかして楽しそうに茶化してくる伊角を、それでも心の底から信じていた。それは伊角が嘘をつかない人だと知っているからでもあり、自分が伊角の人となりを熟知していると思えるくらいには一緒にいるからでもあり、そんな伊角が自分を信じてくれていると知っているからでもあった。
伊角と同じような顔をしているのだろうな、という自覚のまま、酔いを残して呟いた。
「オレだったらちゃんと介抱してやんのになー」
「ほんとかァ?」
「今だってしてんじゃん」
「えー、歩いてるだけだろ」
「それが大事なの」
涼やかに、風が吹いた。なめらかで冷たい空気が辺り一面をかき混ぜながら勢いを増す。
「さむ……うわっ」
ビル風の強さに押されるようにして和谷がよろめく。とす、と軽い音と共に伊角の肩に身体が当たった。
「っふふ、さっきと反対だな。大丈夫か?」
「だ、大丈夫だよ別に」
「酔ってるなー」
「伊角さんに言われたくねー!」
微風の中を、深い意味も無い会話を交わしながら更に往く。当たったままの身体を離すこともなく、同じ歩幅で。
二人きり、望月に満たない月光を浴びながら、あてどなく。
帰り道でも店を探すでもなく歩くのは、ただ、そこにいたいから。
そこにまだ、夜があるから。
「でもちょっと風が出てきたな」
「酔い覚ましには丁度いいぜ」
今ここにあるもの全て、うつろうものであるべきなのだろう。月も、風も、街も、そして人も、独り善がりに望むままにはならないしなるべきではないからこそ、今ここにあることが素晴らしいのだと。
それでも、和谷が伊角と一緒にいることを望んでいるように、伊角も和谷と一緒にいることを望んでくれている、と思いたかった。
ここにまだ、夜があるように。
この夜を、二人で歩くように。
今ここにある全てが煌めいているのを、醒めない瞳で見つめていた。
「そういえばお前、店で『まだ彼女できないのか』って冴木さんに絡まれてたな」
「酒飲むとすぐああだよ、自分が調子良いからって」
「和谷のことが心配なんだなァ、ちょっと分かるよ」
「……分かる、って?」
一呼吸遅れた和谷の問いかけに疑問を抱くこともなく、伊角は軽やかに答える。
「良いやつなのに浮いた話の一つも出ないから気になるんだろ。オレも、和谷に彼女ができたら、って時々考えるぜ」
「考える、って――何を?」
和谷の目の前で、そのやわらかな笑みは、どこか儚さを纏って、この夜の何よりも煌めいていた。
「さみしくなるだろうなって」
歩きながら、呼吸をしながら、何の躊躇いもなく伊角は告げた。
どうして、と尋ねる必要も無かった。
伊角が望んでくれている、それだけで充分だった。
だから、触れていた身体を離して、少し先へ進んで、見上げながら笑った。
「別にいらねェよ、彼女なんて」
だって、と続ける必要も無かった。
――伊角もまた、笑っていたから。
そうして、夜はまだ仄かに暖かい暗闇として、うつろわざる煌めきを溶かしていった。
「そっか」
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