巡る朝日

 過去のものだと思っていた。そうしようと努力して、何でもなかったかのように振る舞って、いつの間にか本当に何でもなかったかのように思えてきて、その記憶の現実味までも薄れて、高校生になる頃にはもう単なる友達という関係に収まっていた。
 そのはずだった。
 あの頃和谷から与えられていた唇の温度を、やわらかさを、他と比較する機会さえ無く刻み込んだままの記憶を、失えるはずがないのに。
 忘れようと、良くないことだと、ずっと封印しようとしてきた必死さそのものが、忘れられはしない事実であるということを示していた。
 そしてその全てを今、思い出していた。
「伊角さん、おーい?」
 自分の名を呼びながら目の前でひらひらと手を振る和谷に、その温度しか知らない自分に、どこからか笑いが込み上げてきた。ちかちかと視界で転がる空き缶の大雑把な反射すら愉快に見える。
 この歳にして恋愛もそれに準ずる行為も無くただ碁だけを打ち続けてきたのに、今更気づいてしまって、どうしろと言うのか。
 たった一人、伊角の目の前で心配そうな顔をする和谷は、あの頃より大人びた顔で、あの頃と同じ表情をしていた。
 だから伊角は、遠慮なく笑い出したのだ。
「っふふ、はは」
「あーもう飲み過ぎだって、布団敷いてやるから寝なよ」
 和谷は溜め息をついて腰を上げた。そうして伊角の隣へやってきて、散らばった飲み会の残骸を片付けようと屈んだ。
 その横顔の精悍さの奥に、あの頃と変わらない和谷の温かさを見出して。あのとき、和谷が放った言葉が脳裏をよぎって。
 伊角はおもむろに、その手を引いた。
「伊角さん?」
 首を傾げて振り返った和谷へ、伊角は上体を起こして近づいた。呆けている顔のあどけなさと先程の精悍さの隔たりに、余計に微笑んでしまう。
 訝しんだ和谷が何かを言うより先に、二人の距離が、どこまでもゼロになった。
 ――初めて伊角から重ねた唇は、柔らかくて優しくて、なんだか甘い気さえした。たとえ勘違いでも、その感触の全てはそこにあった。子供の頃、今となっては本当に大昔の、まさしく若気の至りで和谷から与えられていた感触と、思い出した温度と、何も変わらなかった。
 ふと安堵感に支配されて、酩酊か睡魔か判然としないふらつきを覚える。身体の力が抜けると同時、離れてゆく唇に名残惜しさを感じながら一瞬だけ瞼を開けた。
「っ……!? 伊角さんっ、今……!」
 今までにないほど目を瞠った和谷に肩を揺さぶられるも、身体と瞼の重さに抗えず床へ倒れ込んだ。
 意識を失くす直前、細まる視界の正面で狼狽する和谷に抱いたのは、
「ふふ……」
 ただひたすらな、いとおしさだった。

 あの頃。
 まだ二人共、幼かった。
 否。
 幼かったのは、伊角だけだったのかもしれない。
 何度か重ねてしまって、憶えてしまった唇の温度を、やわらかさを――その意味を、伊角は受け入れられなくて。
 和谷はきっと、分かっていた。
「――和谷」
 その日は、よく晴れた秋の真ん中だった。けれど閉じられたカーテンが陽を遮っていて、なのに電気もつけずにいたから仄かに薄暗かった。
 見えない青空の内側、伊角の自室の中央で、二人の唇が離れて――伊角はそのまま、顔を背けた。
 そうして、震える拳を握りながら呟いたのだ。
「やっぱり、良くないと思う」
「なんで? 何が良くねェの?」
 視線を合わせられず俯いた伊角に、納得できないというように和谷は怪訝な声色で尋ねた。
 小学六年生という幼さゆえに深く考えずにいるのだろうと、伊角は勝手に決めつけていた。
「なんでって、そりゃ……」
「オレはしたいけど、ダメ?」
「ダメ、っていうか」
 あまりに真摯な和谷に気圧されながらも、自身の裡にある倫理が防波堤となってそれを押し留める。言語化すらできない常識という名の便利な概念を反駁の言い訳にした。
「おまえは子供だから分からないかもしれないけど、普通は男同士でこんなことしないんだぜ」
「そんなの知ってるよ」
「え……?」
 虚を衝かれ思わず顔を上げる。強い光を宿した瞳が、真っ直ぐ伊角を射抜いていた。
「でも、伊角さんとがいい」
 そうして。
 目が眩むほどの輝きを、恐れた。
 単なる憧れの延長でしかないはずなのに、何かを期待しそうになる自分の愚かさを、恐れた。
「伊角さんと、キスしたい」
「和谷……」
 伊角は、和谷を誤らせるわけにはいかなかった。
 でも、本当は――。
 薄暗い部屋の外で、たまゆらに太陽が陰るのが分かった。
「――もう帰れよ。今までの、無かったことにしよう」
「伊角さん……」
「良くないんだ、こんなこと。キスなんて、本当は好きな人同士がやるんだよ。簡単にするもんじゃない」
「い、」
 和谷が何かを言うより先に、伊角は腰を上げた。向けられる視線の眩しさに、これ以上耐えられそうになかった。
「オレたちはライバルで友達だろ」
 まるで自分に言い聞かせるように、言葉を放った。
 友達だから、と。
 友達は、ふとした間隙に唇同士を触れ合わせたりしないと。
 何かの道理にも道徳にも倫理にも則っていないと思うと同時に、伊角自身に芽生えてしまった感情の正体と向き合うのが怖くて、拒絶したのだ。
 部屋に背を向け扉を開けた伊角の後を追うように、和谷も立ち上がる。然して、不満気ながら諦めを漂わせて笑った。
「そうだよな。……わかった。友達だもんな」
 寂しげな笑いが耳に届いて、振り返ってしまう。自分より随分と小柄な身体と、俯いた頭と、伏せられた目が見えた。
 寂しさを、見てしまってはいけないのに。
 ――幾度も和谷と唇を触れ合わせて、その度に嬉しそうな和谷に戸惑いながらも受け入れそうになってしまって、離れてゆく和谷を名残惜しくさえ思ってしまったから、振りほどいたのだ。
 和谷を誤らせるわけにはいかず、そして伊角もこのままでは誤ってしまうと、心のどこかで感じていたから。
 一度だけ、俯いた和谷の頭を撫でた。
「うん」
 だから。
 いつの日か、幼さゆえの過ちだったと笑って思い出せる日まで、忘れることにした。

 
 ひどく頭痛が響いて目が覚めた。身体はいつの間にか布団の中へ押し込められていて、壁と框、そしてうっすらと朝日を通す窓ガラスしか見えない。もぞもぞと手足を動かしながら起き上がると、昨晩散らかされていた空き缶や肴の残骸はすっかり片付けられていた。そうしたであろう家主は早々に畳まれたもう一組の布団に凭れ掛かり読書をしている。
 伊角が起き上がったことに気がついた和谷は、こちらを見遣ったまま本を閉じた。ぱたん、という大人しい音だけが、少し遅い朝に鳴った。
「おはよ」
「……おはよう」
「朝飯食う?」
「ああ……、っつ」
 ぼんやりと頷いた途端、また頭痛がした。額に手を当てて痛みに顔をしかめていると、和谷が眉を顰めた。
「大丈夫?」
「あんまり……」
「珍しくすげー飲んでたもんな」
 和谷は苦笑ののち、立ち上がって水を汲み伊角へ差し出す。目の前でゆらゆらと揺れる水面を見つめながら、伊角はゆっくりとコップを受け取る。透明なグラスと透明な水の境界と、屈折と反射と、そこに色をつける部屋と二人。
「和、」
 そうして顔を上げた瞬間、至近距離でぶつかった視線に、昨晩の最後を思い出してしまう。
 ほんの一瞬、されど一瞬。
 自ら仕掛けて重なった唇の片割れが確かにあると、意識してしまう。
 和谷は固まった伊角を不思議そうに眺めてから、その唇を三日月のようにしならせ、ほのかに微笑んだ。
「もっかい寝る?」
 それが伊角にとって最後の逃げ道なのだと分かって。
「いや……起きるよ」
 無理矢理に布団を抜け出した。
 トーストに目玉焼きという二人の基準ではそこそこ料理と言える朝食を胃に収め、二日酔い用の常備薬を飲む。とはいえ、さっさと皿洗いまで終えて対面に座る和谷のどこか固い面持ちまで感じ取れる程度には、幾分かは回復していた。眠気も、頭痛も、――記憶も。
「伊角さん、あのさ」
 ゆえに。
「昨日、オレにキスしてきたの、覚えてる?」
 その問いを誤魔化すことなど、できるはずがなかった。
 そのつもりも、なかった。
「――覚えてるよ。その、……ごめん」
「謝るってことは、伊角さんとしては良くないことだったんだ」
 伊角の肯定と謝罪へ、寂しげに瞳を揺らす和谷を遠く感じて。
 そう感じることが、嫌だった。
「オレが、とかじゃなくて、良くないだろ」
「……じゃあ、なんでしたの?」
「っ、」
 答えられず、伊角は押し黙る。
 答えが無いからではなくて、答えを口にしたら、もう戻れない気がしたから。
 口を噤んだ伊角へ、和谷は懐かしむように紡ぐ。
「良くないって、そうやって大昔に伊角さんに叱られたの、覚えてるぜ。キスなんて簡単にするもんじゃない、ってさ」
 伊角の肩が強張る。浅い呼吸に焦りが滲んでいるのを自覚するも、取り繕うことさえできない。
「でもオレは――、簡単な気持ちで、キスしたことなんてねェから」
「……」
「オレはずっと……昔からずっと、伊角さんが好きだったよ! だから……」
 和谷は固まる伊角の隣へ身体をずらし、言葉を発せずにいた身体を正面から抱き締めた。
「昨日の、伊角さんからキスしてくれたの、嬉しかったんだぜ」
「和谷、――」
 それは、どこまでも温かくて。
 行き場に迷い虚空を彷徨う両腕が、時間を経てようやく和谷の背中に辿り着いた頃。
「なあ」
「……なんだよ」
「さっきの、答えてもらってねーんだけど」
「さっきの、って」
 和谷はほんの少し身体を離し、真正面から伊角と向き合う形になって微笑む。
「伊角さんはなんでオレにキスしたの?」
 つまりは、伊角にとっても和谷と真正面から向き合わなければいけないということで。
 ようやく自覚してしまった、本来ならきっと喜ばしくはないだろう感情を、和谷へ伝えなければならないのだろう。
 たとえ和谷が気づいていたのだとしても。
 それでもまだ、照れ臭さが邪魔をしていた。
「――したかったから、じゃ、ダメか?」
「っははは、ううん、ダメじゃないけどさ」
「何笑ってるんだよ」
「じゃあ、」
 たとえばではなくて、本当に、和谷は気づいていたのだ。伊角の感情も、伊角がそれを言えないでいることさえも。
 あらゆることが許される気さえした。本当にこれでいいのか、とか、結局無かったことになどできなかったのは自分だったんだ、とか。そんな自問自答も拒絶の記憶も何もかも、ただ幸福を願い幸福を望む感情には勝てなかった。
 けれどその事実を自ら言葉にするのはあまりに困難で。
 そうして和谷は、まるで自明のことのように、それでいてひどく嬉しそうに笑った。
 和谷の笑顔を、朝日が照らしていた。
「伊角さんは、オレのこと、好き?」
 その優しさが、温かさが。
「……好きだよ、もう……キス、するくらいに!」
 伊角が目を伏せて告白した瞬間、もう一度、重なった。
「っん……!」
「――っはぁ、……へへ、ね、オレたち両想いなんだな」
「和谷っ」
 やけに頬が熱かった。多分、目の前で真っ赤になっている和谷と同じ色をしているのだろう。
「伊角さん、オレさ」
 互いに火照った頬を擦り合わせるようにまた抱き締めて、和谷が囁いた。
「ずっと待ってたんだ」

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