小夜の紅色

「おーい、和谷ァ」
「なんですか?」
 あちこちで出来上がった大人達を避けながら呼ばれた方へ移動する。一体いつからこういった飲み会に声をかけられるようになったのかは覚えていないが、少なくとも飲酒は強制されないので参加するようにしていたらこんな光景に慣れてしまった。未成年なのに介抱役が板についているのも問題かもしれない。
 横長に準備された席の右端、飲み会の中心からは離れた位置に、和谷を呼んだ本人の先輩棋士と、そしてもう一人がいる。
「伊角が呼んでる」
「あー……」
 伊角はすっかり酩酊した顔でゆらゆらと左右に揺れながらも、和谷を見つけてにこりと微笑んだ。
「和谷」
 赤らんだ顔は酒のせいだと分かっていても、嬉しそうな声色と優しい笑みに無性に胸が高鳴ってしまう。表に出せば戒めにならないであろう感情を仕舞い込み、苦笑と嘆息を溢した。
「またそんなになるまで飲んで……歩ける?」
「だいじょうぶ」
 伊角は上機嫌にひらひらと手を振った。素面では見ないこういった挙動を他人が知ったら、きっと伊角の――大人びていると思われている――印象が変わることだろう。
「全然大丈夫じゃなさそうなんだよなァ……」
 和谷が肩を竦めると同時、先輩棋士が腰を上げた。
「もうお開きになるだろうから先に二人で帰ってな。このまま居座ってると二次会に連れてかれるぞ」
「ありがとうございます。帰ります」
 次第に片付けの雰囲気が出始めた中央テーブルを一瞥し、彼はよろよろと移動していった。その背に一言礼を告げると、隣の伊角が首を傾げた。
「わや、帰るのか?」
「伊角さんもだよ」
「ええ……」
「飲み過ぎだっての」
 会計を先に済ませるタイプの飲み会で良かった。和谷はふらつく伊角の手を引いて、若干酒が抜けているであろう幾人かへ声をかけてから退店した。
 冷え込む夜空の下を並んで歩きながら、和谷は溜息交じりに尋ねる。
「伊角さん、なんでいっつもこんなに飲むんだよ。そんなに強くないじゃん」
「強くないことないぞ」
「そんな人が潰れるまで飲まねェんだよ」
 一次会の終わりに抜け出す程度の時間はまだ夜にとっての序の口で、駅へ向かう道中でも多くの人とすれ違う。色んな格好の人がいるが、和谷ほどの若年者はそうそう見られなかった。
 伊角は繋いだ手を離そうとはせず、細めた目を和谷へ向けて、軽くなった口を開いた。
「なんでって、和谷が着いてきてくれるから」
「え?」
「和谷が、オレの誘われた飲み会にはいつも来たがったんだろ」
 伊角の澄んだ瞳が和谷を穿つ。夜の色を映したその奥に、酔い以上の熱があった。
「……そういえば」
 プロになるタイミングで成人した伊角と違い、和谷はまだ十代の境界の内側にいた。最初に酒の席に誘われた翌日、居心地が悪かったと溢した伊角を心配して着いていくようにした和谷は、いつしか未成年ながら主催から「伊角と一緒に誘う」と人数にカウントされるようになっていた。まだソフトドリンクしか飲めないのは全員が承知の上で。
「いや、飲み過ぎる理由にはなってねーって」
 雑踏だらけの信号を抜け、駅前で立ち止まる。どこにでもある光源が果てなく二人を照らしていた。
 向けられる視線を見つめ返すと、伊角はふっと目を逸らした。紅潮した頬は、まだ揺れている。
「――オレが酔ったら、」
 握られた手の強さで、まだ離していなかったことを思い出した。
 その温度だけが二人の間を繋いでいた。
「和谷とこうして、帰れるから」
 伊角の言葉は夜風に乗って和谷の耳をくすぐった。
 揺れて、ふらついて、赤らんだ姿とは違って、その声色はどこまでも真っ直ぐだった。
 楽しげな伊角に、和谷は大きく息を吐いた。
「飲み過ぎだよ」
 そうして二人でしばらく顔を見合わせて、やがて笑い声が弾けた。

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