曇天に舞う僅かな桜が身体のあちこちを通り抜けていった。柔らかくも冷えた風は横髪まで攫い、大気を連れていく音が耳に触れた。四月も既に中旬で、これ以上散れば葉だけになってしまうであろう桜に抱く感傷は、伊角には特に無かった。
別に、珍しくもなかった。ただ、違和感があるだけだった。
未だ慣れない通学路も、一回り背丈の低い左隣の友人も、ポケットの中に仕舞った物も。
それだけなのに、靄がかかって呆けたままの頭が返事を遅らせる。
「伊角さん?」
「あ……ごめん、えっと、昼飯?」
「……うん。結局伊角さんちでって話してたけど、マジでいいの?」
「お母さん、和谷の分まで作るって言ってたから大丈夫。足りなかったら言えばいいから」
大通りから一本曲がり、住宅街へ入ってゆく。花曇りの中で湿った空気を大きく吸い込んで、また大きく吐き出した。声にならない呼吸音が溜息のように響いてしまったと気づいて隣を見遣る頃には、和谷は既に眉を下げて伊角を見上げていた。
「――何かあった?」
和谷は、真っ直ぐな子供だった。伊角だって三年前は同じ年齢だったのだから、子供であることを揶揄できる立場ではないしそのつもりもない。だからこそ、三年前の自分はこの真っ直ぐさを持っていたかと問いたくなるのだ。
いつだって真っ直ぐ自分を見上げてくる和谷に、同じくらいの力で向き合いたかった。
そうして言い淀んでいると、和谷は回り込むように一歩先へ踏み出した。
「やっぱり、友達と遊びに行きたかった?」
「そんなことないって。オレ、和谷が何してくれんのかなって一週間楽しみにしてたんだぜ」
「だから、プレッシャーかけんなよっ」
本心を風に交ぜて返せば、和谷は愁眉を開く。風に揺られるまま歩いては、口元は穏やかに緩めている。あどけないようで落ち着いていて、それでいてとても似合っていた。和谷はそのまま伊角の隣に戻り、話を続ける。何メートルか先に、ほんの少しの雲の切れ間から日差しが落ちていた。
「高校生になったらそうやって土曜も学校行かなきゃなんねーのかな。早くプロになりてェ!」
取り留めも無い会話をしながら、和谷が時折見せる強い眼差しを思い出していた。誰だって対局時は真剣だが、特に和谷は普段の朗らかで素直な明るさから連想できない、鋭く大人びた光を放つ時がある。
二面性、ではない。どちらも本当に和谷だった。だからきっと、家へ招くほど仲良くなれたのだ。
あのとき取り付けた約束を想起しながら、伊角は春光へ向かって歩を進める。
「ていうかホント、結構待ってたんじゃないか?」
「大丈夫だったって。なんだかんだちょっと迷ったしさ」
「だから直接うちに来たら良かったのに」
伊角の苦笑に、和谷はそれより暖かな温度で完爾と笑う。
「だってブレザー着てるの見てみたかったし、そんで、早く会いたかったから」
溶け始めた花曇りの下で、薄陽と共につむじ風が吹いた。二人の前を踊るように通り過ぎてゆく風の中で一瞬だけ足を止めると、ズボンのポケットからかさりと軽い音がした。
おもむろに手を突っ込み、取り出す。
「何それ? お守り?」
「……ああ」
赤い布地に白い糸で『合格祈願』と印されたその御守は、汚れ一つ無く真新しい。
「今日もらったんだ。クラスメイトに」
一九九八年、四月十八日。
伊角は、十六歳になった。
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