どこまでも透き通る、よく晴れた青空が眩しかった。
アスファルトに反射する夏日に目を細めながら、朗らかに笑う和谷の声を聞いていた。
「なーんか物足りなかったなァ」
「その割に長考してなかったか?」
「え、伊角さん見てたの?」
ばつが悪そうに首元に手を当てる和谷に思わず失笑しつつ伊角は頷く。
「一瞬な。盤面見たけど、あの後のツケコシのこと考えてたんだろ」
「いやー二子置かせてたし――」
冷房が効いていた碁会所に後ろ髪を引かれつつも道なりに歩き始める。シャツの加護を外れた二の腕が太陽光に照らされて、じりじりと野暮ったい熱を帯びてゆく。ふわりとそよ風が吹いているのがまだ救いだったが、その涼しさによって肌が汗ばんでいることに気がついた。
一度意識してしまえば、その熱や汗やべたつきに焦れったさを抱いてしまって、どうにか無かったことにできないかと眉を顰めてしまう。そんな自分を宥めながら吹いた風は、気づいてしまったら忘れられはしない、と言わんばかりに光を揺らしていた。
駅へ近づくにつれ狭くなる青空から視線を降ろし、和谷の顔を見遣る。頭の後ろで組まれた腕は、肩まで太陽に焼かれている。伊角と目が合った和谷は、小さく笑って大袈裟に嘆息した。
「あちーな」
「な、今日はずっと快晴らしいぞ」
「えーっ、ちょっと涼んでいきてェな」
「あそこコンビニあるぜ」
「お、行こ行こ」
伊角が指差したコンビニの上空に、丁度太陽の欠片があった。うんざりするほど熱された横断歩道を駆け足で渡りながら、視界の先で道を示す眩しさにまた目を眇めていた。
夏は、一段と動悸を感じる。
コンビニの自動ドアが開いた途端流れ出る冷気に当てられ、二人揃って「あー……」だなんて意味の無い声を発してしまって、顔を見合わせて哄笑した。
「涼しー、碁会所出てほんの数分のはずなんだけどなあ」
「おまえタンクトップだし、直射日光が当たるから余計暑いのかもな」
「でも着てたらもっと暑いんだよ」
和谷は右腕をまっすぐに伸ばして裏表と眺めた。健康的な色の肌は赤くなることもなく、ただじわりと汗ばんでいるようだった。似合わない蛍光灯の下で、その色が一瞬ゆらりと照ったようで、伊角は慌てて目を逸らした。
「ジュースでも買うか」
「いーね」
レジの反対側の壁際に整然と並べられた飲料を眺めながら、和谷は唸る。
「んー、ポカリ? コーラにしよっかな」
「これは? ライチだって。初めて見た」
肩の高さほどにある、白地に原色の赤と青で彩られた缶を指差す。よく見る名前の炭酸飲料だが見たことのない味だった。和谷は思い出したかのように頷いて、一番手前の缶を手に取った。
「この前から出てた気がするけど飲んでなかったなァ。これにしよっかな」
「どんな味だったか後で教えてくれよ」
「……伊角さん、オレで試そうとしてない?」
「してないって」
近くの棚から飲み慣れた真っ黄色の炭酸飲料の缶を取りながら、伊角はにこやかに首を横に振る。自分なら未知の味の飲料を真っ先に手ずから試そうとはしないだろう。そんな和谷の何事にも物怖じしない性格が眩しかった。決して、その味を試そうなどとは思っていなかった。
和谷は伊角が選んだ缶をぱちくりと凝視して、愉快そうに苦笑した。
「伊角さん、そればっかりだな」
「だって美味いだろ」
「そりゃあね」
レジへ向かう導線へ振り返り、飲料コーナーを離れようとする。狭い店内はところ狭しと棚が陳列されていて、近くから局所的な冷気を感じた。
その背後から、和谷の明るい声が聞こえた。
「伊角さんって、気に入ったのをずっと選ぶタイプだよな」
何かを見透かしたような言葉に、思わず足が止まる。
声色の明るさに不釣り合いな何かを感じ取って、気取られないよう振り向く。和谷はいつも通りの笑顔で首を傾げていた。
「ん、どうかした?」
「……いや、」
気のせいだろうか。……気のせいだろう。和谷に限って。そうだとしても、それはきっと、考えすぎだ。そうでないといけない。
何が?
自分の中で、正体不明の問いが駆け巡る。一体何を和谷に悟られたくないのか、それすらも曖昧なまま、ただ、気づいてはいけないものが――気づかれてはいけないものがあるとだけ考えていた。
何も言えないまま、ぼうっと和谷を見て。
ふと横に置いた右手がやけに冷たくて、止まっていた口が思わず動き出した。
「冷たっ……あ、アイスか」
「アイス! いいじゃん、食おうぜ」
和谷は伊角の隣で手をついて、大量の氷菓子が敷き詰められたケージを覗き込む。
「やっぱりガリガリ君にすっかなー、伊角さんは?」
「んー……オレもそれにする」
二人分の棒アイスを取り、和谷は一つを伊角に差し出しながらいたずらっぽく微笑んだ。
「――オゴり?」
「んなわけあるか」
「ちぇっ」
端から肯定されるとは思っていない軽口のやり取りに、二人で笑みを合わせる。缶ジュースと棒アイスをそれぞれ会計して、小銭と共にレシートを財布へ仕舞った。
コンビニから一歩外へ出れば炎天下は強さを増していて、歩き出す気持ちにもならない。揃って嘆息しながら軒下へ避難し、レジ袋から棒アイスを取り出して封を開けた。青い冷気は夏日の眩しさを受けて白々と煙る。伊角が煙を太陽に翳すのと、和谷が棒アイスにかぶりつくのは同時だった。
「はーっ、うめェ!」
「っはは」
破顔する和谷につられて顔を綻ばせながら、伊角もまた白く青い冷たさを口に含む。爽やかなソーダ味が体内の熱気の中へ沁みてゆく。視界いっぱいに広がる眩しさも、熱も、動悸も、冷やされて、冷やされて、留められてほしかった。
「そんなに慌てて食うと、またハラ壊すぞ」
「ヘーキだって。もう、心配性だなァ」
「前に三個も食ってセーロ丸飲んで寝てたの誰だっけ?」
「あれは事故!」
「なんだよそれ」
学校の長期休みの中でも、夏休みは特別だった。院生研修の無い休日がこういう時にしか現れないのもそうだし、夏は特にプロ試験前であることもあってつい気が立ってしまう。だからこそ、普段通りに振る舞う和谷に会って安堵している、という自覚は、あった。
けれど、複数人ではなく二人で会うことに、どうしてこんなに、嬉しくなってしまうのか。
――友達として、居心地が良いから。和谷の笑顔が自分に向けられているのが、まるで特別みたいだから。
それは、嘘ではなくて。
嘘ではないからこそ、それ以上があるような気さえして。
そんなことを思惟しそうになって、それを遮るように和谷が叫んだ。
「あっ! 当たった!」
「え、マジで?」
「ほら! 『あ』だよ!」
半分ほど無くなった和谷のアイスから飛び出た棒の先端には、確かに『あ』の字が焼き付けられていた。
「へー、初めて見た」
「運悪そうだもんな」
「どういう意味だよっ」
「はははっ」
一度文字が見えたからか、和谷はさらにがつがつと食べ進める。忠告したばかりなのに、と忍び笑いだけを一つ置いて、伊角もまたアイスを消費する。
「あ」
「うん?」
「はずれだ」
「やっぱり」
「やっぱりって言うなよ」
和谷は愉しげに笑いながら、すっかり『あたり』が見えた棒にぶら下がる残りのアイスと格闘していた。掬い上げるように大きな塊を頬張り、目を瞑りながら咀嚼している。
伊角がアイスを食べ終わる頃、和谷はライチ味の炭酸飲料のプルタブを開けた。カシュ、という小気味良い音が軒下の明るい暗がりに響く。
「……ん? これ結構美味いかも」
「へえ」
単なるゴミとなったアイスの棒をレジ袋へ戻し、自分の缶を取り出そうとしたその直前、視界の端でひどく眩しく夏日が光った。焼け付くような陽から逃げ出した視線の先で、和谷が自身の缶を差し出していた。
「伊角さん!」
聞くまでもなく、分かった。太陽より眩しい笑顔で、和谷は伊角を見つめていた。
「一口飲んでいいよ」
教えてくれよ、などと言っていた数分前の自分に聞かせてやりたかった。
友達同士で回し飲みなんて普通のことだし、友人と何度もやったし、和谷とやったことだってある。そう、言い聞かせようとした。
そう考えてしまう時点で、とっくに普通のことだと思えなくなっているのに。
自分へ笑いかける和谷の、暑さで赤くなった頬や、糖度で照る唇の優しさを――その柔らかさに触れたらどうなるのだろう、と想像してしまって。
全てに、気がついてしまった。
「あ……」
思わず溢した声からさえ悟られてしまいそうで、慌てて口を噤む。
気づいてしまったら忘れられはしない、と。
火照る身体へ吹き付けた風はレジ袋を揺らし、ガサガサと嘲笑していた。
「伊角さん?」
こんなことを考えるべきではないし、考えている場合ではない、と。
不思議そうな、不安そうな瞳を向けてくる和谷に躊躇い続け、必死で、友達の距離感を思い出そうとしていた。
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