ぐう、と音がした。いつもと同じ、和谷の腹の虫も騒ぎ出す時間だった。
たまには外で食おうぜ、と誘われるまま、大衆的なレストランに訪れた。伊角の目の前に置かれたのはごく普通のオムライス、対面の和谷はハンバーグだった。
「今日は寿司じゃないんだな」
ケチャップごと一刀両断しながら問うと、和谷は珍しく渋面を浮かべながら唸った。
「回転寿司、ずっと流れてくるから止め時分かんないんだよなァ」
「なんだよ、食いたいだけ食えばいいのに」
至極真剣な声色で答える和谷に、伊角は思わず苦笑する。好きなものに対して際限が無くて困る、それはひどく贅沢な悩みだ。三人兄弟で育ちそれなりに制御を覚えさせられてきた伊角にとっては、和谷の素直さはあらゆる意味で羨ましかった。伊角が際限無く触れることを譲らなかったのは碁くらいのものだ。
和谷はハンバーグを歪に切り分けつつ、生まれた欠片を都度口へ運んだ。皿の上の決められた量、大きさの決まった形。それを咀嚼して、和谷は伊角へ笑いかける。まるで不足していることすら愛おしいように。
「オレは伊角さんと話したかったんだよ」
「……、」
息を呑む刹那、ざわつく店内も、橙色の照明も、向かい合わせに座る狭いテーブルも、二人の風景の一部でしかなかった。
食事をしたいからじゃない、だなんて、言われるまで思いもしなかった自分に呆れすらして、同時に羞恥が湧いた。
何も変わらないような気がしていたのだ。和谷の告白を受け入れたときも、自分が和谷を好きであると認めたときも、決して不安定な姿を見せなかった和谷だったからこそ、二人変わらずにただ隣にいられればそれでいいのだと信じていた。
信じようとしていた。
和谷の顔を真っ直ぐに見るのが困難になって、誤魔化すようにオムライスを小さく刻んでは何度も忙しなく摂取する。多くはないはずのケチャップの酸味がやけに冴えていた。
「別にさ、遠くに行かなくたっていいし、他の遊びもしなくていいけど、っていうか打てれば満足だけど」
どこか超然とした和谷の声に穿たれていた。
それでいい、だなんて、そんなわけが無かったのに。
「でも時々、こうやってデートしたいんだよ」
嬉しそうに、楽しそうに、愛おしそうに笑う和谷に、耐えきれず片手で顔を覆ってしまう。
「……やっぱり、これ、デート?」
「最初からそのつもりで誘ってるんだってば」
告げられる言葉があまりに自分に都合が良いものだから、また一つ羞恥が増える。
一番近くにいるために、友達以上であることを互いに望んだ。
その欲求は、隣にいるだけでは足りなかった。
自分に言い聞かせていただけなのだ。何があってもなくても、互いを選んで隣にいられればそれでいい、だなんて嘯いて。
橙色の照明を浴びて、和谷はいつものように美味しそうに食事を頬張る。
「食い終わったら部屋戻ってまた打とうぜ」
何も変わらない、なんてこと、あるはずがないのに。
変わってゆくことを期待していた自分を自覚して、伊角は大きく息を吐いた。
「ゆっくり食うか」
「はは」
和谷は時折メニュー表を見遣りながらも、追加で頼みはしなかった。
ガチャガチャ、と音がした。築年数がそこそこ古いせいか防音対策が甘く、鍵の開閉音も無駄に響く。和谷が借りた部屋に通っているだけの身なのでそこへ口を出しはしないが。
和谷は薄い上着を脱いで部屋の隅へ押しやりながら振り向く。
「普通に打つ? それとも早碁?」
「早碁にするか」
「オッケー。あ、それ」
そして伊角が袖を抜いたジャケットにハンガーを通し、壁に引っ掛ける。
「……今度買ってくるか」
「何を?」
「ハンガー。おまえ、床に上着置きっぱなしだろ」
「違ェよ、普段はかけてるし。っていうか、伊角さんが買うのは変じゃん」
「和谷一人じゃ買いに行かないと思うけどな」
生活用品を逐一買い揃える和谷の姿はあまり想像できない。必要最低限はあるが、そもそも多くを必要としない質だろう。整理整頓も得意ではないのが納得できる。その気になればこなせるはずだろうに。
和谷は一度がしがしと頭を掻いて、嘆息した。
「うん、まあ、無くても困らねーし」
そうして、隅に置かれた上着と壁に掛けられたジャケットをもう一度眺めた伊角が反論するより先に、和谷は碁盤の向かいへ腰を降ろした。
「それよりほら、早く」
急かさずとも投げ出したり逃げたりするはずもない。それは、二人とも分かっている。その言葉は和谷の話題転換のための焦りであって、今すぐ打ち始めなければならないわけでもない。そう分かっているからこそ、伊角は顔を綻ばせて頷いた。
「ああ」
今日何度目かの対局。
伊角がこの部屋に通うのは、和谷と打つためなのだ。
ジャラジャラ、と音がしていた。碁石を片付けるときに鳴る、せせらぎのようなこの響きが伊角は好きだった。これに限らず、碁石が立てる音はどれも耳に染み付いている。故にか、聴いていると不思議と穏やかな気持になるのだ。
和谷は少し唇を尖らせながら一足先に白石を碁笥に仕舞い終え、碁盤の上に置いた。
「二勝一敗かァ。今日は負け越しだ」
「そうだなぁ、調子の問題っぽいけど」
伊角も同じく仕舞い終えた碁笥を碁盤に乗せ、両腕で後ろ手をついた。僅かなカーテンの隙間で赤らんだ残映が光り、眩しさに目を細める。もう夕方になってしまった。
和谷は伊角をじっと見て、一拍置いてからカーテンへ近寄った。水色の揺らぎを静かに開けると、裾だけ黄金に染まった紅の空が滲む夕陽を連れて目の前に広がっていた。家々と電線の影で区切られた空は、それでも和谷の横顔を赤く照らしていた。
その光景に名状しがたい胸苦しさを覚えて、そのまま和谷と並んで窓の外を眺めた。
誰より近く、隣にいる、とは、この光を共有することなのかもしれない。
しばらく静寂が続いたのち、和谷が伊角の肩へ頭を預けた。
「あのさ」
そして、床に置かれた伊角の手に、和谷の手が重ねられる。
「うん」
視線の斜め下の和谷の顔はよく見えない。ただ、温かさだけがあった。
「こうしてるだけでいいな、って思ってたんだけど、やっぱり、足りなくって」
重ねられた手に、ほんの少し力が込められた。
「伊角さん」
和谷は顔を上げ、反対の腕を伊角の肩に乗せる。真正面から向き合うと、今まで見ていた夕照の残像が視界にちらついて、目が眩んだ。
和谷の瞳が真っ直ぐ伊角を射抜く。視線だけで語るそれは、最早口を開く意味さえ持たせなかった。
伊角もまた、隣にいることの先をずっと期待していたから。
何かが変わることを怖がりながら、望んでいたのだ。
「……和谷」
伊角が呟いて瞼を閉じたのと、和谷が顔を近づけたのは同時だった。
燦燦とした見えない夕陽と、触れた唇の温もりだけを感じていた。やわらかく、温かく、苦しく、震えてしまった。思わず握り返した手を、和谷もまた握る。閉じたままの唇と瞼の奥で、それでも愛おしさを覚えた。
好きだ、と。
仲間でも友達でもなく、たった一人の大切な人に対する気持ちだけを抱いて。
自分は和谷が好きなんだと、和谷に自分を好きでいてほしいと、今より先へ歩いていきたいと、数多の祈りが胸の内を埋め尽くした。言葉にすれば陳腐な感情は、どれも全て真実だった。もしかしたら、あの時和谷の想いに応えたときよりも鮮明に、自らのことを理解したのかもしれない。
恋でも愛でもなんでも良かった。ただ、胸一杯の温かさを欲していたのだ。
まるで永遠のような一瞬の時間が過ぎて、呼吸の仕方を忘れそうになってからようやく唇を離した。
「……っ、はあ、はあ」
「……、へへ、なんか、照れるな」
「あ、当たり前だろ……」
正面から顔を見られず照れ隠しの言葉しか出てこない。形にならない饒舌な内心を、それでもどこにも伝えられない。そのもどかしさをどうにかしたくて、夕焼けよりも赤い顔の和谷を抱き寄せた。
「わ、」
和谷は瞬間驚きに声を上げるも、そのまま伊角の背中に手を回した。昔より大きくなった身体は、伊角を抱きしめ返すのに十分だった。その事実がくすぐったくて、今度は伊角が和谷の肩に顔を埋める。
「なんか、急だって」
「えー、オレはずっとしたかったけど」
その言い方だとこっちがしたくなかったように聞こえる、と反論しようとして、そもそも自覚はしてなかったかもしれない、と反論できず沈黙を返した。伊角の沈黙をどう受け取ったのか、和谷は優しく笑いながら冗談のように続ける。
「でも、伊角さんにとってオレが特別なら、それでいいのかも」
和谷の言葉に、息が詰まった。呆れや諦めではない、ただ、そうであることを泰然と受け入れようとする姿勢。自分がそれにどれだけ甘えてきたか、無自覚でいられるほど和谷への想いは浅くない。
向こう側に広がる仄日が、伊角を焚き付けるように燃えていた。
和谷を照らす夕焼けの空に苦しくなるのは、大人びてゆくその横顔に胸を締め付けられるのは、この時間の先にあるものを考えてしまうからだ。
だからこそ。
一度身体を離して、瞬きを繰り返す和谷に、今度は伊角が唇を重ねた。
触れて、感じて、考えそうになって、すぐに遠ざかった。一瞬の温度は、それでも伊角の心に僅かに形を与えたようだった。
「よく、ない」
隣にいられればそれでいい、だなんて、言わないでほしい。
好きだと告げるなら、際限無く求めたっていい。
「オレは……オレだって、もっと和谷と色々したい」
デートも、キスも、あるいはそれ以上も。
変わらないままでいたい。その願いと同じくらい、もっと変わっていきたいと祈っている。この部屋に通うのが和谷と打つためだとしても、決してそれだけでは無いように。
唯一とは、そういうことだと思うのだ。
伊角の呟きに、和谷は何度も頷いていた。
「うん」
一つひとつの相槌の発声で、伝えたいことを和谷は理解してくれていると分かった。最も大切なのは言葉ではなく伝える意志なのだと、昔から知っていた。ずっと昔から、いつの間にかそうやって通じ合っていた。
そうして、溶けそうなほど夕映えを浴びて、和谷は眩く微笑んだ。
あまねく未来を見据えるように。
「じゃあ今度、二人でハンガー買いに行こう」
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