突き抜けるような蒼天。高く膨らむ入道雲を抱いた空は、どこまでも続くかのように澄み渡っていた。その遥か上空で太陽が熱をばらまき、ぎらぎらと強気な顔で輝く日差しが和谷の肌に降り注いでいた。
盛大な夏だ。
「あちィなー……」
大して長くもない道中でこの有り様だ。八月を夏休みにしたナントカ省に感謝しつつ(本当はもっと長くてもいいのに)、小走りで駅へ向かう。
八月十二日、それは和谷の十三歳の誕生日だった。
* * *
『はい、伊角です』
「もしもし、院生の和谷です。えっと、」
七月の終わり、久々に電話をかけた。初めてでもないのに、名前を呼ぶのに言い淀んでしまう。普段あまり意識しない響きに緊張している自分がいて、それが余計に気恥ずかしさを増しているのだ。
『ああ和谷くん。慎一郎ね、ちょっと待ってて』
和谷の言い淀みに感づいたらしく、伊角の母親は電話を離れた。遠くからの声だけが聞こえる。
名前だけで察するということは――一体家でどんな風に話されているのか気になるところだが、わざわざ追求するのも自意識過剰のようで尻込みしてしまう。伊角さん、オレのこと何て言ってんの? なんて聞けるわけがない。
平常心で受話器を握っていると、不意に聞き慣れた温度が耳元に触れた。
『もしもし、和谷?』
「伊角さん! あのさ、オレ予選通ったぜ!」
『ホント? やったじゃん。……今日?』
「今日」
『二敗したんだ』
「なんだよ、予選通過には変わりねェだろ」
『本戦はもっとキビシイぞぉ』
「わかってるって!」
去年ぼろぼろに負けたのだ。前より院生順位も上がったし、成長しているとはいえ厳しい戦いであることに変わりはない。予選と本戦のインターバルの今、少しでも緊張をほぐして挑むしかない。
「とにかく本戦には行けるんだぜ! がんばんねーと」
『ああ』
伊角は一瞬の沈黙ののち、そういえば、と切り出した。
『来月、おまえ誕生日だよな』
「あ、覚えてたんだ」
『カレンダーにも書いてあるぞ』
「えぇ……!?」
そこまで誕生日を祝えと懇願した記憶は無いが、性格かもしれない。書かないと普通に忘れてそうでもある。
和谷が困惑しているのをよそに、伊角は話を進める。
『オレ祝ってもらったからさ、何か和谷ほしいものあるか?』
「え? うーん……」
『そこまで高いものじゃなければ買ってやるよ』
ほしいもの。と言われても、趣味が多いわけでもないし、囲碁関係の本を伊角に買ってもらうのも何だし、パソコン関係のものは結構値段がする。
和谷はしばらく唸った。物、は特にない。
お祝いか……と思惟して、この前の伊角の誕生日を思い出す。
「ほしい物は特にないんだけど、せっかくだからまた伊角さんちで打ちたいなァ」
『オレんち? そんなのでいいのか?』
「うん。それがいい」
受話器の前で大きく頷く。伊角の誕生日祝いとして家で打った四ヶ月前の記憶は、今も鮮明に残っている。和谷が渡したプレゼントに笑って、なぜか涙ぐんで、そして始めた一局。
毎年こうやって始められたら、と幸福の在り処を見つけたのだ。
* * *
「いらっしゃい」
インターホンを鳴らすと、返事と共に伊角がドアを開けた。この時間に来ることは伝えてある。外で会うよりラフな私服姿になぜか浮足立ってしまった。
「お邪魔します」
「うん。先上がってて、お茶持ってくよ」
「わかった」
光を跳ね返すフローリングを歩き、階段を昇る。この間取りに慣れた自分の順応力に内心苦笑しつつ、伊角の部屋の座布団へ腰を下ろした。今日は二枚ある、ということは買ったんだろう。どこまでも律儀だ。碁盤の隣にテーブルが置かれていて、何やら本が雑多に積んである。
背後にあるベッドはシーツまできれいに整えられていて、いつも乱れている自分のベッドとの差を感じる。のそり、と寄りかかろうとして、なぜか罪悪感が頭をもたげて止めた。整えられたシーツに皺をつけるのをためらった、のかもしれない。
和谷がぼうっと白い天井を見上げていると、伊角が上がってきた。
「おまたせ。麦茶でいいよな」
「うん、ありがと」
丸い盆をテーブルに置き、伊角も座布団に座る。盆の上に麦茶が入ったグラスが二つ、それと焼き菓子。クッキーとマドレーヌらしい。
「これは?」
「お母さんが持っていけって。食べていいよ」
「やった!」
麦茶と合わせる茶請けではない気もするが、遠慮なく手に取る。和谷はクッキーを頬張りながら、冷房がよく効いた部屋から外を見る。
「今日もすげェあちーよな。プロ試験で幕張まで行くのイヤになりそうだよ」
「しょうがないけどな。電車もだけど、バス停からまた歩くし」
「そーそー」
去年の夏をまた想起する。二人揃って負けて辿った道、夕日が赤く燃えていた帰路のことを。
強くなりたい。勝ちたい。初めてのプロ試験の緊張感に気圧されそうになっても、和谷の隣には一緒にその道を歩く伊角がいた。
今年は去年よりもっと先へ。
伊角はいつ受かってもおかしくないのだ。
ばくばくと焼き菓子を食べ終え、和谷は碁盤に目を遣る。
「伊角さん、打とーぜ」
「はいはい。……あ、」
碁笥を手前に下ろしながら、伊角は和谷へ視線を送る。音もなくじっと見つめてから、ゆるやかに笑った。
「和谷、誕生日おめでとう」
「へ? あ、うん、ありがと!」
そういえば、そういう話だった。祝いとして碁を打つ、そう言ったことを忘れていたわけではない。
ただ、もうすでにプレゼントをもらったような気持ちになっていただけで。
伊角の部屋に二人、自分の為に時間を割いて打ってくれるという、それだけで和谷は胸がいっぱいだった。
「ほんとに何もいらないのか? 遠慮しなくても」
「いいって、何選ぶかとか、伊角さん気ィ遣いそうだし」
「そりゃあな……」
困ったように頬を掻く伊角に、一つ頷いて、碁石をニギる。
「もう祝ってもらってるから。ほら!」
* * *
二局続けて打ち、検討が終わったところで少し頭がぼんやりとした。瞼が重たくて、つい船を漕ぎそうになる。はっ、と慌てて頭を上げるも、伊角はおかしそうに失笑していた。
「珍しいな。寝不足?」
「あー……まあその、へへ」
おどけて見せても眠いものは眠い。せっかく一緒にいるのに、と抗いたい気持ちを呼び起こして目を覚まそうとするが、我慢できずあくびが出てしまう。
「ふあ……」
「休憩にするか。ちょっと寝てもいいぜ」
「えっ、悪いって」
「眠い状態で打ってもしょうがないだろ。ベッド使う?」
その言葉に、慌てて後ろを振り向く。毎日伊角が使っている、綺麗に整えられたベッド。
「え……」
「床で寝っ転がられるよりはそっちの方がいいよ。乗せてやろうか」
「ガキ扱いすんなよ!」
けらけらと笑う伊角に反抗するように、勢いのままベッドへ乗っかる。この行動が良いか悪いかはともかく、上がってしまったからには仕方ない。頭と身体の重さをベッドに預け、腕を放り出す。同じくらいの大きさのシングルベッド。自分のベッドとは絶対に違う柔らかいシーツや枕。そこにある、不思議な安心感。
横を向くと、狭い視界の向こうで伊角が微笑んでいた。まどろみの中で、伊角が静かにベッドへ近づいてくるのが見える。
穏やかで優しい瞳。和谷が伊角を振り向くとき、いつもこうして見つめ返してくる。そのことに、果てしない心地よさを抱く。
うつらうつらと開いては閉じる視界の最後に、伊角が手を伸ばしてきたのが見えた。暗くなった世界で、どこからかほのかに香る安堵。それは、全てを預けて意識を手放せそうな部屋だったり、寝具から漂う伊角の匂いだったり、二人分の無音だったり。
頭に触れた、大きな手だったり。
――再来週にはプロ試験本戦だというのに、伊角とも戦うことになると分かっているのに、張り詰めた息苦しさを忘れられる時間。
プロになったら、ずっとこうしていられるかな。
同じ道にいて、戦い合いながらも同じ方向を向いて。
院生でなくなっても、二人で変わらずに打ち続けられるかな。
遠いようですぐそこにありそうな、何一つ決まっていない未来。それでも、この先を目指したい願望。
ぼんやりと世界と自分の境界が朧げになるのを意識しながら、胸の内がひどく温かい感情に支配されていた。
そこへ、意識の向こうからの囁きが、和谷を撃ち落とした。
「……こうして一緒にいられたらなぁ」
その言葉に、今伊角がどんな表情をしているのか見ることもできず。
ただゆっくりと撫でられている、頭に触れているその手の温もりだけを感じていた。
伊角のことを大切に思う気持ちと同時に湧き上がる、締め付けられるような苦しさ。
――オレも、と。
きっと告げられない一言を抱えながら、この苦しさの正体に気づくより先に、目の前で世界が途切れた。
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