除夜行くに繡を被ず、されど

 二十九日の午後、もうすっかり年末年始の様相になった街をくぐり抜けて実家へ帰った。
 自活している部屋は元々物が少ないし――面倒だったけど――掃除だけはした。後はゆっくり過ごそうと思っていたら、帰るやいなや「大掃除するから手伝って」と母親から雑巾を渡された。……まあ、自活を始めてからも飯やら洗濯やらで世話になっている身だし、何より自分の家であることは確かだし。
 親に言われるがまま、窓を拭き、浴室を擦り、自室を片づける。中学の頃の教科書なんかもう必要ないだろう。本棚から大判の教科書やらを取り出した途端埃が舞った。
「はっくしょん!」
 大声でくしゃみをすると、壁の向こう側から「大丈夫ー?」と親の声がした。大した防音もされていない団地なので仕方ない。こういうプライベートの無さが困るのだ。適当に返答し、本の類をまとめて梱包紐で縛った。が、綺麗さっぱり捨てるのも気が引けて一旦押し入れへ。また来年考えよう。
 そうして窓から夕陽が差し込んできた頃、鞄の中に入れっぱなしにしていた携帯電話が鳴った。ここ数ヶ月でよく聴くようになった着信音だ。慌てて鞄を開けて通話ボタンを押す。
「もしもし」
「あ、もしもし和谷。オレ、伊角。今忙しい?」
「ううん、大丈夫。なんかあったの?」
 耳元でスピーカーが響く。椅子に腰掛けて頬杖を突き、耳を澄ませてその心地良い声を聴いていた。
「元旦っていつも初詣に行ってただろ? 今年は二年参りしないかと思って」
「二年参りって?」
「ああ、大晦日から元旦までの夜中にお参りに行くってこと」
「夜中? なんかオモシロそーじゃん」
「二日分お参りするからご利益二倍らしいぜ」
「ホントかよ」
 二人で声を揃えてけらけらと笑う。
 別に信心深いから初詣に行っているわけじゃない。何年も続けていたせいか習慣になっているのだ。去年は、二人では行けなかったけれど。
 それでも、名前も分からない神様に願い事をして、そのことで自分なりに決意をして、「何お願いした?」と伊角さんと参道を戻る元旦は院生時代でも季の区切りを感じるものだった。答えなど分かり切っていたとしても。
 何より、碁を打つためじゃなく二人で過ごすために会う。そんな時間に、ずっと燻り続けている伊角さんへの淡い感情は強く主張してくる。
「前は和谷も中学生だったし、夜中に外出なんて多分怒られるだろ」
「まァね。……結構心配性なんだよな、うちの親。プロになってからはオレも自由にやってるけど」
「おまえ、ひとりっ子だしな」
 伊角さんは一度言葉を切り、
「まあ、うん、行くなら連絡くれよ」
「え? 行くよ」
「……家族に聞かなくていいのか?」
 苦笑交じりの、どこか大人びた声色の問いが返ってくる。オレは話を聞いた時点で行くことを決めていたけれど、伊角さんが何を気にしているかはすぐに分かった。自分のこと以外は分かりやすい人なのだ。
「オレが行きたいから。家族にはあとで言うよ、大丈夫」
「いいならいいんだけどさ」
 ほんのりと安堵したような雰囲気がした。なぜかくすぐったくなる。
 オレはふと、夜中の参拝について想像した。そしてその後のことを。
「ところでどこに行くの? 帰る時間には終電ないよな」
「いつものところだと帰れないから、オレんちの近くの神社に行ってそのままオレんちに泊まってくのはどうだ?」
「泊まってっていいのかよ、元旦なのに」
「うちの家族は和谷のこと気に入ってるし、多分大丈夫」
「伊角さんこそ許可取ってからにしてくれよ」
 もう一度、声を合わせて笑った。伊角さんにはこういう、後先を考えず思いつきで行動するところがある。オレよりよっぽど勢いで生きているんじゃないだろうか。でも、そういう部分が伊角さん自身を助けているんだろうし、周りの人も伊角さんを助けたくなってしまうのだと思う。オレがそうだから、よく分かる。
「とりあえず家族に聞いとく。また電話するから、その時予定立てよう」
「わかった」
「じゃあな」
「うん、また」
 ピッ、と無機質な音が鳴って、通話が切れる。右手で携帯電話を折り畳み、そっと握った。オレンジ色だった夕陽はほんの数分で赤みを増していて、部屋の中を眩しく照らしていた。夕陽の名残惜しさを残したまま空は夜へ向かう。あと二夜。
 携帯電話を握りしめたまま、片づけ途中の部屋からリビングに向かって大きな声をあげた。
「オレ、大晦日の夜出かける!」

 伊角さんから再度電話がかかってきたのはその日の夜で、伊角さんの両親は二つ返事だったらしい。最早親戚のように思われていると言うけれど、本当だろうか。盛ってないだろうか。それほどに仲が良いとは……思えるけれど。
 とにもかくにも伊角さんちの了承はもらったとオレの親にも説明し、うちはうちで親戚の家に行くから昼には帰ってきなさいという言と共に了解を得た。
「駅から行った方が早いから改札出たところで集合にしよう」
 そう予定を立てて、夕飯を食べ風呂に入り家を出て、十一時に着いた。ほとんどの店が閉まっている。電車や駅では思っていたより人がいたけれど、こうして街を見るとやっぱり特別な夜だ。一人の部屋を借りてからは夜に外出することもままあるとはいえ、こんなに暗くはない。
 約束の十一時半まではまだ時間がある。何か買っていこうかと思っていたけどこの感じでは多分コンビニしかやっていない。まあいいか、寒いし寄っていこう。
 駅を出て右手に曲がった先で煌々と明かりが点いている。小走りで入り飲み物コーナーを見回していると、ダウンコートのポケットの中で携帯電話が震えた。着信……と思いきやメールだった。
『あと十分くらいで着く』
 未だに入力に不慣れなのか、文面が簡素なのはいつものことだ。オッケーとだけ返信し、何も買わずに踵を返した。
 白い息を吐きながら駅前をぐるぐると往復していると、大通りの向こうに見覚えのある影が見えた。
「伊角さん!」
 左右を見渡したのちに信号のない横断歩道を歩いてくる。九日前の研究会でも会っているけれど、外で、夜に、二人で会うとなるとまた違う気持ちになる。
「和谷、早いな」
 近くで見ると防寒着が厚いのか、固めのチェスターコートが若干膨れている。面白いと言うべきか、これでも佇まいは格好良く見えると言うべきか。――気恥ずかしいのでやめた。
 伊角さんは駅前の時計を見上げて肩を竦めた。
「そこそこ大きい神社だから並びそうだけど、さすがにまだ早いかもな」
「じゃあその辺ウロウロしてこうぜ」
「なんにもないんじゃないか?」
「それでいーんだよ」
 伊角さんがいれば、と、言いはしなかったけれど。

 見たことはあるが知らない街だった。伊角さんに着いていく形で住宅街を散策する。大抵の家は電気が点いていて、等間隔に並ぶ街灯もあってそれなりに明るい。それでも道には誰もいなくて、星のない夜をのんびりと歩き続けた。
「今年は色々あったなァ」
「色々、かァ……」
 その単語に、この一年の変化全てを思い出す。部屋を借りたこと。進藤がなぜか手合をサボったこと。伊角さんが中国に行って、帰ってきたこと。伊角さん、本田さん、門脇さんがプロ試験に受かったこと。――そして。
 考えて、呆けそうになって、ゴマカすように口を開く。
「伊角さんは今年以上に特別な年なんてそうそうないんじゃねーの」
 実際そうなんじゃないかと思う。どれだけの期間を院生として過ごしたか、その間どんなことを考えざるを得なかったか、全てではなくともよく知っている。たとえこの先がまだまだ果てしなくとも、その始まりの年なのだ。
 オレの言葉に、伊角さんは至って真面目に顔を綻ばせた。
「まァでも、おまえは来年北斗杯があるだろ」
 そう、北斗杯予選まで、あと四ヶ月だ。……負けたくない。
 湿っぽくなりそうなのを避けて、星のない夜に向かって人差し指を立てた。わざと口角を強く上げる。
「じゃ伊角さんは、タイトル戦リーグ入り」
「プレッシャーかけんなってっ」
 慌てる伊角さんに背後の街灯が被る。降り注ぐ光を、まだオレより高いところで受け止めている。
 オレたちの、これから。たとえば北斗杯。たとえば大手合。たとえばタイトル戦予選。追い抜かれる世界を目の当たりにしては、逸る気持ちに背を押され。
 言えはしないけれど、不安は確かにそこにあって。
 思わず吐いた温かい息だけが宙に浮かび、明るい暗闇を白く染めた。

 大回りをして神社に辿り着く頃には、参道から鳥居を越えるくらいには結構な列ができていた。……まだ十一時半なのに。
 この時点でこれだけ人がいるということは、当初の予定通りにしていたら多分混雑でげんなりしていたように思う。浮かれて早く到着したのも結果オーライだった、ということにしておこう。
 何十メートルか先にある本殿は照明が当たっていて、想像よりも荘厳に見える。
「年明けってこんなに混むんだ?」
「オレもこの時間に来たのは初めてだけど……大きい神社に行かなくてよかったな」
 並んでいる間にも列はどんどん後ろへ伸びていく。様子を見ようと振り返ったとき、北風が吹いた。参道の樹木や左右に吊された灯りが揺れ、影がぼやける。
「うわ、さむっ」
 伊角さんの身震いに遅れて寒さがやってきた。
「さみーっ!」
「今日明日だいぶ冷えるらしいぜ」
「え、ホント?」
 二人で身体を震わせる。三十分近く辺りを歩いた上に列で止まって待っているものだからさすがに冷えを感じる。こんなことならカイロを持ってくればよかった。
「伊角さん、カイロない?」
「ない」
「ちぇっ」
「おい、こっち側から風吹いてるからオレの方が寒いんだぞ」
「あ、やっぱり?」
「おまえなぁ」
 道理で、と納得する顔をしてみせる。とはいえどうしたものか、このまま凍えるのもな、と腕を組んでいると、つと伊角さんが身体を寄せてきた。
「な、何?」
 近づいてきた身体に思わず焦り、声が上擦りそうになる。不自然にだけはなりたくない。早まる鼓動を悟られないよう肩を縮こまらせる。
 伊角さんは、いたずらっぽく――そして不思議なやわらかさで目を細めた。
「おー、あったかい」
「まあ……最終手段だなァ」
「風が通り抜けないってだけでも結構違うらしいしな」
 厚い上着越しには人肌なんてよく分からなくて。ポケットに入ったままの手が二人分、宙ぶらりんで夜に並んでいるらしい。
 それでも、ぎゅうぎゅうと伊角さんと肩を寄せ合っているだけで無意識に頬が緩んだ。
 夜中の非日常や、気軽な愉快さや、あるいは恋慕ゆえの動悸や。
 まとまらない感情がいくつもオレの中で渦を巻き、熱となって芯から湧き上がる。
「――まだかかるよな」
「うーん、もう少しじゃないか?」
 境内の端、参道から少し離れたところで焚き火が熾されていた。細い煙と火花が夜空に舞っている。温かさがここまで届くわけでもないのに、寒さなどどこかにいってしまった。
 それからずっと、身体を寄せ合って焚き火が燃えているのを見ていた。
 進みたいような、動きたくないような気持ちのまま。
 
 日が変わって辺りがざわめき始めた。あちこちから定型文の挨拶が聞こえる。オレは深々と頭を下げてから、周囲と慣習に倣うように同じ文句を口にした。
「……、あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとうございます。今年もよろしく」
「うん、よろしく」
 こんな簡素な一言を、去年は言えなかった。
 二人でよく初詣に行った神社へたった一人で向かって、自分自身のことを願って、伊角さんのことを祈って。
 長い長い一年だったような気がする。
「あ」
 伊角さんの声と共に列が動き出した。遠くから鈴の鳴る音や手拍子の音が聞こえてくる。参拝が始まり、列は鳥居を抜けて進む。
 少しずつでも、歩いているだけで高揚する。何を願おうかと思案し始めると回想する暇もなくなる。
 ふと隣を見遣ると、伊角さんも真剣な顔をして考え込んでいた。多分、願い事に迷っている様相だ。――今まではずっとプロ試験のことばかりだったから、改めて問われると迷う気持ちも分かる。
「伊角さん、何お願いするか決まった?」
「うーん…………」
 唸っている。伊角さんはちらりとオレを見て、眉根を寄せた。
「和谷は?」
「オレは……」
 北斗杯とか、昇段とか、タイトル戦とか、大手合とか、それ以外の仕事とか、目指すものや考えなければいけないことはたくさんあるんだけれど。
 でも、どうせ神に願うのならば。
「…………ヒミツ」
「人に聞いておいてなんだよ」
 結局伊角さんはお参りをする直前まで顎に手を当てて考えていたようだった。時折じっとオレを見ては何も言わずに目を伏せる。オレが何を願うか、そんなに気になるんだろうか。
 二十分ほど経って、ようやく賽銭箱の前まで辿り着いた。吊り下げられた紅白の紐を揺らし、がらんがらんと鈴を鳴らす。礼と手拍子をして手を合わせ、静かに目を瞑る。
 願い事より先に頭をよぎること。
 去年は、色々あった。伊角さんがプロ試験を受けて、合格して、オレは――伊角さんのことが好きだと、その感情に確かに名前をつけた。
 伊角さんに、恋をしていた。ずっと前から。
 けれど、当然ながら、伝えられはしなくて。
 言えないことがたくさんある。それでも、この明ける日に一緒にいられたこと。今はそれで充分なのかもしれなかった。
 だから、今はただ、願った。

「あ、甘酒配ってる」
「いいじゃん、もらいにいこうぜ!」
 参道から離れた社務所の近くにはイベントテントが立てられ、甘酒と大きく貼り紙が出されている。紙コップ一杯でもなんか得した気分になるんだよな。
 甘く溶けた米粒を噛みながら飲み込むと、途端全身がぽかぽかと温かくなる。他の人も同じように集まって和気藹々と話しているけれど、白い息がそこら中に見える。冬の夜中に出歩くのは大変だ。
「なんかお正月ってカンジだな」
「いかにもだよなー。……あー、さみいっ」
「やっぱり寒いよな、初詣もすませたしオレんち行くか」
「そうしよーぜ」
 まだ参拝者の列が続く参道を脇から抜ける。鳥居を越えて少し歩けば、眩しかった神社の名残もない街灯だけの住宅街にまた戻っていた。
「せっかくなら一局打たない?」
「やる気あるなァ。眠くないのか?」
「なんか目ェ冴えちゃってさ」
 一局だけな、と答える伊角さんはなんだか嬉しそうに笑っていた。夜道に二人分の息と笑い声が溶ける。混じって、馴染んで、けれど消えはしなくて。
 そうして並んで歩きながら。
 今はただ、願っていた。
 動けなかったとしても、進んでしまったとしても、二人でいられる日々のことを。

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