子どもたちへの祝福 - 1/2

 店の扉を開けるその瞬間だった。
「今日はオレ達のオゴリだからな、遠慮するなよ」
 そう宣言した門脇へ咄嗟に反応したのは、今日の主役である和谷ではなく伊角と本田だった。
「えっ」
「そんなこと言ってましたっけ」
「言ってないが、こういう席はそういうもんだろ」
 一人さっさと入店し予約の名前を告げている門脇の後ろで三人は団子のように顔を寄せ合った。自分達より手慣れた門脇が予約した個人経営の居酒屋はお世辞にも入口が広いとは言えず、それだけで通路を塞いでしまうくらいだった。
「そうなの? 伊角さん」
「オレも頻繁に参加するわけじゃないしなァ。――本田のときはそうだったかも」
「あ、そうだったな、うん。覚えてるよ。まァそうでなくたってオゴるけどな」
「うんうん、そうだな」
「……伊角さん、テキトーに言ってない?」
「言ってない言ってない。和谷も大きくなったなァって思っただけ」
 まるで子どもと目線を合わせるように首を屈める二人の仕草に呆れつつ「もうオレここまで伸びてるだろ」と髪の高さまで右手を挙げて示す。二人にわずかに及ばないその手の位置は、それでも十代の頃より遥かに近づいていた。
 その髪をわざとかき回すように、はは、と伊角は笑いながら和谷の頭を撫で回す。昔から同じ硬い質感から生まれる、わしゃわしゃという聞き慣れた音が――それを鳴らすような人は他にいないのだが――空気だか骨だかを伝って和谷の耳に入る。
「……まだ席にも着いてないのに、もう酔ってんの?」
「いやー、なんか楽しくてさ」
 赤い提灯に照らされた幼気な風景に、感慨深そうな本田の声色が流れた。
「伊角さんって案外子どもっぽいところあるよな」
「だよなァ。ほら伊角さん、本田さんにも言われてるぜ」
 和谷が親指で示した先にあった苦笑に伊角は目を泳がせ、ついでに乱れた髪から手を下ろした。何事かを反論しようとしたらしい伊角が口を開けたのと、遠ざかった手に少しだけ名残惜しさを抱きそうになったのと、店前で油を売る三人組へ門脇から声がかかったのは同時だった。
「おーい、早く来いよ! 特にお誕生日様!」
「行きます行きます!」

 初めは違和感を抱いたアルコールの匂いも二杯目を飲み終える頃にはすっかり慣れていた。今しがた喉を通ったレモンの爽やかさと炭酸の刺激にごまかされてしまったのかもしれない。ともあれ、全くの下戸というわけではなくて良かったなという感想のまま、上機嫌に話し続ける門脇の勢いに乗るように相槌を打っていた。
「やっぱり初めての酒ならちゃんとした店でないとな。その辺の安いチェーン店で済ますなんてもったいない。そんで飲めるだけ飲んで二日酔いの洗礼を浴びるくらいが丁度いいんだ」
「浴びたくはねーけど……!」
「あーあ、門脇さん何杯飲んでるんだろう……」
 何度目か分からない滔々とした大人の語りの隣で嘆息した本田へ、向かいの席から声がかかっている。
「本田、おまえ次どうする? 和谷は? もう空だろ?」
 顔色こそあまり変化がないが声はしっかり浮かれている伊角が、隣の和谷のグラスを覗き込んでいた。レモンサワーの欠片もないグラスを振ると、小さくなった氷たちがからからと愉快そうに笑った。
「伊角さんは何頼むの? 同じやつにするよ」
「んー、ビールは苦いって言ってたよな。ハイボールならいいかな――、本田は?」
「ああ、オレはまだあるからいいよ。……えーと、門脇さんどうしますか?」
「――だからオレも最初に飲んだ時はなァ……ん? じゃあ生ビールで頼む」
「……まだ全然飲む気なんだな…………」
 素面とほとんど変わらない冷静さで呟く本田の声は、どんどんとボルテージの上がる宴の前にかき消されてしまった。
 さっそく届いたハイボールをぐいと飲む和谷に、門脇が大きく頷く。
「それにしても成人したてでその勢い、やるじゃないか」
「何すかそれ、褒めてますか?」
「褒めてるって。なあ伊角」
「え?」
 眉をひそめて追求すると、門脇は参ったとばかりに両手を肩まで挙げて伊角へ投げる。きっと面白がっているのだろう。急に話題を振られたからかあまり話を聞いていなかったのかそれとも酔っているのか、ああ、とだけ呟いた伊角は和谷の肩に手を置き生温かい目線を送ってきた。
「和谷、飲み会のことでスネてたからその分元気なんじゃないか?」
「スネてた?」
 門脇の問いに伊角は「ええ」と頷いてから、
「一昨年に本田の成人祝いで飲み会したって教えたら『伊角さん達は酒が飲めていいよなー!』って騒いでスネてたんですよ」
「スネてはねーけどっ……てか言わないでって言ったじゃん」
 にこにこと満足そうな伊角の微笑みは概ね和谷を茶化して楽しんでいるときの温度だ。そしてその茶化しは、和谷が思い詰めてしまいそうになると決まって顔を出す。意識しているのか無意識なのかは判らないが、それを助け舟だと感じるのは事実だった。
 門脇と本田と伊角は同期で合格した三人で、手合でも顔を合わせる機会が多いのか時折食事に行っているというのは和谷も伊角から聞いていた。伊角はプロ棋士としてスタートした時点で既にほぼ二十歳で、親や九星会の先輩や知己の棋士に連れられて酒の席に呼ばれていたことを知っていたのでともかく、和谷の研究会に出入りしている院生時代の仲間からでもある本田が――他の年上棋士とそれほど親交が深くないとはいえ――門脇と伊角に連れられて楽しそうな飲み会をした、なんて話を聞いたその日、和谷は齢十八にして久々に駄々をこねたのだ。
『今度三人が酒飲む時オレも呼んでよ』
『まだ未成年だろ、飲めないぞ』
『飲めなくていいから!』
 何がそんなに神経に障ったのか分からないとそのまま書いてある顔で伊角は首を傾げ、珍しく頬を膨らませた和谷に頷いてみせたのだ。
 伊角と和谷の小突きあいを見遣った門脇は、生ビールを一度に半分ほど流し込んで大げさに哄笑した。
「だからおまえオレ達の飲み会によく来てたのか。毎度コーラしか飲めないっていうのに」
「ジンジャーエールと烏龍茶くらい飲んでましたよー」
 アルコールが回って感情的になっているのか、つい子どもじみた声色で口を尖らせてしまう。
 ――駄々をこねたその後、伊角に連れられ飲み会に同席したりはしたものの酒が入り普段より上機嫌になったり急に真剣な話を始めたりする三人に素面では追いつけず、大概の場合介抱役に回っていた。主に強くもない割に飲もうとする伊角の。総じて便利に使われていたのではと思わなくもない。
 それでも伊角に声をかけられる限りは着いていったし、行きたかった。彼らが――彼が自分より年上なのは重々承知しているが、子どもの内から年齢差なんて関係なく並んで強くなってきたのに、ここに来て身体的年齢で置いていかれたのが悔しくて、いや、未だ自分が踏み入れられない場所で先に楽しんでいるのが、寂しくて。大したことじゃないと頭では分かっていても共有はしたくて、でも同じ場所にいても酒の楽しさそのものを味わうことはできなくて、それがまた疎外感になって。
 一緒に大人になれたなら良かったのに。
 そう考えてしまうことの方がきっと幼稚だ。伊角をこうして慕えるのだって、十一と十四の、あの二人として知り合ったからなのだ。そうでなければどうなっていたかを考える必要も無いけれど。あの時そうして、今こうして、そして皆で切磋琢磨し戦う日々に不満など無いけれど。
 ほんの僅かな回想ののち、握りしめていたハイボールのジョッキに目を向ける。泡立った薄黄色の液体はガラスに刻まれた溝の奥でゆらゆらと照明を反射している。和谷は右手から軽く力を抜き、先程のように勢い任せに飲み下すのではなく少しずつ含むように中身を流した。
 自分がどの程度酒に強いのかは分からない。けれど、きっと、こんな些末な感傷など忘れてしまえるくらいには酔えるだろう。
 

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