子どもたちへの祝福 - 2/2

「じゃあな、和谷、伊角さん。……和谷、ホントに大丈夫か?」
「だいじょーぶだって。な、伊角さーん」
「これは大分だなァ。オレが飲ませすぎたか。悪いな、伊角」
 同じくらい酩酊しているであろう門脇のへらりとした謝罪へ「いえ」とだけ返答し、重心が定まらず揺れながら手を振る和谷の肩を掴んだ。二十歳になった体つきはとっくに大人のそれだが、遺伝なのか体質なのかどうにも自分より骨格の細さを感じてならない。
 駅前で二人と別れ、和谷のアパートへ続く道のりを和谷と共に辿る。浮かれたままの足取りに転ばないかと不安になるも存外歩みはしっかりしていた。
「わざわざ送ってくれなくたってだいじょーぶって言ってるのに、心配性だなァ」
「心配っていうか、おまえがこんなに浮ついてるのが珍しいから」
「なるほど、面白がってんだな?」
「人聞きの悪い。それだけじゃないぜ」
「面白がってることは否定しねーのかよ」
 和谷ほどではないが伊角もまた酒が入ってるせいで、普段より地につかず着地点のない会話が続く。笑った拍子にふと空を見上げれば、頭上には未だ灯る都会の光にかき消されたらしい夜が広がっていた。星の祝福はなく、半分にやや足りない程度の月が遠くに浮かんでいるだけの薄い黒。この世の多くにとっては取り留めのない時間でしかない、されどこの日は、伊角にとっては。
 思わず感慨に耽る伊角の隣で、和谷は足元に転がっていた石を蹴っては追いつきを繰り返していた。酒が入るとセンチメンタルになる伊角とは違い、和谷はどうやら稚心に還るタイプだったらしい。
「あ」
 和谷が声を漏らすと同時、伊角の頬に冷たいものが当たった。ほんの少しの感触を指先でなぞると、その手の甲にも同じ冷たさがぶつかった。
「雨か」
「雨だ」
 雫の欠片を齎す雲は、徐々に勢力を伸ばしているようだった。星が見えなかったのは夜が眩しすぎたからではなく雲が出ていたからか、と当然の帰結に思わず苦笑してしまう。そんなことにも気づけない程度には、伊角もかなり酔っているらしかった。
「傘ねーから、走ろうぜ!」
「あ、おい、転ぶなよ!」
「伊角さんこそ!」
 こんな小雨なら慌てなくたって、という言葉は、心のどこからも出てはこなかった。
 ただ二人で、同じ道を走り続けていた。
 
 湿った上着をハンガーにかけていると、窓の外がざあざあと騒がしくなった。
「あー、降ってきた」
 和谷の部屋へ駆け込んでから急激に空を覆い尽くした暗雲が泣き出していた。雨の予報は出ていなかったから俄か雨なのだろうが、この雲の分厚さではいつ止むのか見当もつかなかった。窓ガラスを叩き続ける雨粒に目を遣り、つい溜息が溢れる。
「傘借りてもびしょ濡れだろうなァ、これは」
 どうしたものかと立ったまま外を見つめていると、水を運んできた和谷が口元を緩めながら首を傾けた。
「帰るの面倒なら泊まっていけば?」
「あー……」
 油断がそのまま服を着て声を吐いたような状態だった。伊角の抱いたそれを察したのか流したのか、和谷が水を一口ごくりと飲み込んでもう一度尋ねてくる。
「明日何かある?」
「いや、大丈夫」
「じゃあ泊まってそのまま研究会、でどう?」
 人差し指を立てて莞爾と笑う和谷の溌剌さは、酔っていても変わらなかった。今までずっと見てきた温かさ。それに絆され、今もなお、続いている。
 小さくあふれた笑みのまま、伊角はゆっくりと息を吐いた。
「せめてどっかで銭湯に行こうぜ」
「賛成! そしたら明日朝早く起きねーとな」
 言うが早いか、和谷は部屋の隅に畳まれていた布団を広げ二人分の寝床をさっさと作り上げる。何年もこの部屋へ訪れ、両手の数どころか手足の指の数でも足りないくらいには寝泊まりをして見慣れた光景のはずなのに、驟雨の響きと和谷の鼻歌と酩酊した頭に、不思議なほどに高揚している。
 伊角がもう一つのコップで水を飲んでいる間、和谷はものの十秒で寝巻きへ着替え終えていた。乱雑に脱ぎ散らかされた私服がタンス――というには簡素すぎる半透明のケースだが――の前で哀愁を漂わせている。明日になったら銭湯のついでに他の洗濯物と共にコインランドリーに寄るのだろう。以前あまりに大荷物になって手伝いを乞われたことを思い出す。どうして自分が、と言いにくかったことも、同時に蘇ってきた。
「もうすっかり伊角さん専用だなァ」
 伊角さんのスウェット、と呟いた和谷が、タンスから客人用の体で用意されているスウェットを取り出した。とはいえ和谷の言葉通り、仲間内でこのスウェットに最も多く袖を通しているのが自分だという確信があるのでその名前に反論できないし、洗濯に付き合うのも致し方ない。致し方ないが、どこか気恥ずかしさを覚えるのも事実だった。和谷から上下セットを受け取りつつ苦笑し、
「他にもっと泊まってくやついないのか?」
「小宮とか進藤とかがたまにくらいだからさ。伊角さんが多すぎるだけっていうか」
 楽しいからいいんだけど、と付け加えて頷く和谷が心底嬉しそうに顔を綻ばせるものだから、つられて笑ってしまう。まだ酔っているのか、酒は感情を発露させる力がある。普段なら照れ臭くて口にしづらいことだって、思わず言えてしまうくらいには。
 伊角もまた着慣れたスウェットにさっさと着替え、コップを手に台所兼洗面台の水場へ向かう。
「この歯ブラシとかも置きっぱなしだもんな」
 狭い水場の一角、切り取られたように変わる空気、伊角の歯ブラシが小さな台座と共に置かれている。青い柄のそれをひょいと手に取り口の中へ放り込んだ。玄関も水場も部屋そのものも狭い和谷の城は、それでも第二の伊角の居場所とも思えていた。
 和谷もまた伊角の隣へやってきて、同じく自らの歯ブラシを手に歯を磨く。成人した男二人がシンクを背に立ったまま並んで歯を磨く光景は端から見たら滑稽なのかもしれない。とっくに慣れてしまった伊角にはもう判別できないのだが。
 呆けている伊角とは反対に、上機嫌な和谷が口を濯いで片しながら「へへ」と笑んだ。
「こうしてるとルームシェアしてるみたいだよな」
「それも楽しそうだよなァ。……部屋は散らかりそうだけど」
 床に転がる空き缶やビニールのゴミや脱いだ服を見遣る。時間や服装には整然とする割に片付けのズボラさは何年経ってもあまり解消されなかった。弁当やカップ麺のゴミが無い分、昔よりはマシになっていると言えるだろうか。それだけ汚れていても碁盤と碁石を置いているスペースだけはきっちり分けられていたり、頓着しているものには気を遣えるタイプなのに。伊角の急角度の指摘に、喉を唸らせた和谷から反駁が飛んでくる。
「これは一人暮らしだから! 誰かと暮らせば変わるって」
「そうか? おまえの実家の部屋も――」
「あーもう親みてェなこと言うなよ!」
「うわっ」
 和谷は唇を尖らせ、布団へ向かおうとした伊角の腕を掴んでぶんぶんと振り回す。力加減がコントロールできていないのか、はたまた伊角の体幹も弱まっていたのか、突然の引力にバランスを崩し二人揃って倒れ込む。ぼす、という間の抜けた鈍い音と共に伊角の頭がタオルケットに沈み、息つく間もなく上から和谷が降ってきた。横向きになった伊角の胴体に覆い被さる形で和谷の上半身がのしかかってきて、思わず「う゛っ」と声ではない声が飛び出る。痛いというより苦しい。急展開の連続に脳も体もついていけず、ただ呻き続けることしかできなかった。
「いてて……ごめん伊角さん! 大丈夫?」
「……和谷……重い……」
「ごめん!」
 慌てて飛び退いた和谷は伊角の頭の横へしゃがみ込み、しっかり沈み続ける顔を覗き込むように首を屈めた。
「えーと……大丈夫……?」
 あまりに心配を滲ませた声色に、わずかに浮かんでいた驚きや怒りや呆れなどシャボン玉のように割れて消えてしまった。まだ酒が抜けないのか和谷の顔はほんのりと赤いままで、それがまたあどけなさを助長している気がした。丸い瞳と下がった眉。どうしたって、優しく素直にしか在れない和谷のことを気に入っているから、こんなにスウェットを着古してしまうくらいにはこの部屋に訪れている。
 伊角は何とか平然とした顔を作るよう意識して頭を上げ、のそりと体を起こした。
「……大丈夫だけど、おまえ多分酒強くないから飲みすぎるなよ」
 しおれた顔をした和谷の頬を何度か軽く叩く。ぺちぺちと小気味いい音が鳴って、なんとなく満足した。和谷は頬をさすり、目を細めて頷く。
「もう寝ようぜ。眠くなってきた」
「ああ」
 蛍光灯の紐を繰り返し引っ張ると三回目で夜が降りた。その様子に一度大きく欠伸をして蕩けた焦点で自分の布団へ潜り込んだ和谷は、酒に眠気も相まって一層素直に見えた。酒に酔い、眠気に目を擦り、早々にタオルケットに包まる姿に、少しだけ息苦しくなる。落ち着きがある方が良いと昔窘めていたのは自分だったはずなのだけど。
 伊角は嘆息することもなく一度潰されたタオルケットをめくり体を滑らせる。熱帯夜というほどではないにしろ夏の質量が一番高まっている時期の夜、しかも降り続く雨の湿度、あってもなくても変わらないようなタオルケットで十分な六畳間だった。
「おやすみ、伊角さん」
「おやすみ」
 眠いという言葉通り、その一言から三十秒もせず隣からは規則正しい寝息が聞こえてきた。
「…………早いなぁ」
 ふと首を回し、部屋奥の壁を見遣る。どこにでも売っている丸い時計は部屋の右端に鎮座し、頂点よりもう少しだけ左に寄った短針が音も無く鈍速で動いていた。
 まだ日付は変わっていない。
 午前中から出かけ、碁を打ち、夜には酒を飲み、その度に伝えた。一年に一度しか言えない祝いを、何度も伝えた。努めて明るく、あるいはまっすぐに、あるいは気さくに。
 多少の気恥ずかしさなどどうでも良くなるくらい、何度言っても嬉しそうに笑うから。
『オレも大人になったなーっ』
『それ言ってる方が子どもっぽいよな』
『……さっき祝ってくれてたよな?』
 そう言って笑う和谷の顔は、あの頃から全然変わっていなかった。
 雨音だけが響く部屋に、すうすうと寝息が溶けていく。横を見ればくしゃくしゃになった前髪を額に貼り付けて眠る和谷がいる。静かに手を伸ばし、梳かすように、開くように、前髪を除けた。浮いた指先から手のひらを当て、そのまま額から後ろへ流す。起きている時にはできないであろう、音の無い緩やかな動き。
 大人になる、ということが一体何を指すのか、伊角にはまだ分かっていない。
 二十歳になったって中身は大して変わらないし、進もうと思う方向に行けるとも限らないし、あの頃大人だと思っていたような姿には程遠いし、成績だって何段飛ばしで上がれるわけでもない。二十歳から三年を数えても、時が過ぎれば大人になれるとは思えなかった。
 それでも、和谷が成長し続けていることを知っている。もっと上に行きたいと願い努力していることを知っている。
 同じ世界で同じことをして生きている。そうやって生きてきた。これまでも、これからも。そして、それを知っているからこそ、同じ場所にいたからこそ、違うことがあると寂しくなるのだということだけ分かっていた。
 大人になりたいのは、置いていかれたくないから。そう望む気持ちが子どもじみているだなんて断じることは伊角にはできなかった。思い当たる節はいくらでもある。何せ、伊角にとって二十歳とはプロ棋士になったのと同じ年なのだ。
「おまえが二十歳なんて、早いよなぁ」
 いつまでも寂しさはついて回るだろう。一人と一人である限り、人と人である限り。けれど、指先を通る髪の感触も、手のひらに伝う皮膚の温かさも、鼓動のように続く寝息も、違うからこそ感じることができる。閉じた瞼も幼気な寝顔も、隣にいるから見ることができる。それは決して悪いこととは思えなかった。
 違う時を歩んでも、同じ景色を望むなら、そして隣にいるのなら。
 一緒に大人になれなくたって、大人になる姿を見てもらって、大人になってゆく姿を見られるのなら、いつかきっと二人で言い合えるのだろう。
 大人になったな、と。
 そんないつかの日に思いを馳せて、一人眠るその横顔にほんの少しの寂しさを抱いて、そして目一杯の祝福を込めて、最後にもう一度だけ囁いた。
「和谷、誕生日おめでとう」
 ――そうして伊角がタオルケットに潜り込むと同時、その囁きへ応えるように、和谷の唇が短い音を象った。

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