鮮やかな日々

 伊角さんの顔と、その手にある賑やかな柄の紙袋の間を合計三往復してから、ようやく意味のある言葉を口にした。
「はい……って、何? これ」
「だからお土産だよ。ただのお菓子だけどさ」
 紙袋を受け取り中を覗き込むと、側面に瀬戸田と書かれているのが見えた。どこだっけ? と疑問符を浮かべたのを察したのか、伊角さんは軽く笑いながらオレの家の方へ歩き出す。
「広島だぜ。まあ結局、弟達が騒ぐからってあんまり観光らしい観光はしてないんだけどな。クッキーとかも売ってたんだけど、旅館で出てきたそのケーキが美味かったから、和谷に買ってってやろうと思って」
 院生全員分はさすがに多いからやめたけどな、と真面目な顔で語る横顔に、無性に胸が震えた。なんだか特別みたいだ。あるいは、本当に特別だったりして。そうだったらいいのに、なんて恣意的な願望を抱いたまま玄関の扉を開けると、それを体現するかのように母親は既に外出していた。つい数十分前まではいたのに、いつもながら慌ただしい。
「あー、うちの親、今買い物行ってるかも」
「そっか。上がらない方がいいか?」
「まさか、構わねェよ。これ二人で食っちまおうぜ」
「オレが買ってきたのに?」
 紙袋を掲げながら口角を上げると、伊角さんはおかしそうに頷いた。誰宛のお土産だとしても、伊角さんが客になるのだし、客にお菓子を振る舞うのは正しいことだろう。こんな詭弁さえ肩を竦めて許してくれるのだから、願望故の憂鬱な気持ちまでどこかに飛んでいってしまいそうだった。
 リビングの椅子に座る伊角さんを横目に、冷蔵庫から麦茶を取り出して二人分を注ぐ。氷を入れたグラスはあっという間に結露して、お土産の箱を開く頃にはびしょ濡れになっていた。
「瀬戸田レモンケーキ?」
「ああ、檸檬が有名なんだって」
 中には黄色と白のパッケージに包まれた手の平程度の大きさのミニケーキが入っていた。ずっしりと重く、思っていた以上に立派だ。久しく誰かから土産物などもらっていなかったので、ケーキ五個入の箱が一体どれくらいの値段なのかを推量する術がない。仕方ないので好意ということで甘えてぱくりと頬張る。
「うま! うん、ん? そんなに甘くないんだ」
「そう。C.C.レモンもいいけど、こういうのもありかと思って」
 伊角さんも同じように一つ開け、半分ほど口に入れて味わっている。好みの味なのだろう。レモンの爽やかさと深いところの甘さ、後に残る若干の柑橘系の苦味。オレには少し上等過ぎる気もする。大体広島がどの辺りなのかも――中国地方だということだけは覚えている――曖昧なのだから。
 広島の地理を知っていることにも、家族旅行に行くことにも、弟達の面倒を見ることにも、オレへのお土産を買ってくれることにも、そのお土産が繊細なことにも、全てに年の差をまざまざと感じてしまう。遠い三年の距離が甘苦く襲ってくる。
「和谷はこういうの、あんまり好きじゃないか?」
「ううん、うまいよ。焼き菓子ってあんまり食わねェから珍しくってさ」
「なら良かった」
 嘘ではない嘘をついて、箱に手を伸ばす。蓋を閉めようとした刹那、残り三個になった余白が語りかけてきた。
 もう一つくらい。
 もう少しくらい、近づけやしないかと。
 時間の共有、味覚の共有、刹那の共有。それが今、伊角さんとオレを繋ぐものだと。
 そんな自演自作の導きが、願望を独善的に露呈させていると思いながらも、その願望に抗えないまま尋ねた。
「……伊角さん」
「ん?」
 伊角さんは麦茶を一口飲み込んで、かたんとグラスを置いた。濡れた右手を相殺しているのは布巾でもタオルでもなく左手だった。
「今日、うちで打とうって言ってたのはこれをくれるため?」
 七月の終わり、夏の始まり。プロ試験予選免除のオレ達は、各々の過ごし方で本戦を待つ。日曜日は進藤と三人で碁会所へ、月曜日は師匠の家へ、火曜日は研究会へ、伊角さんも九星会へ、そうやって合間を縫ったひとつの日に、伊角さんはオレの家を選んだ。
 伊角家の家族旅行も、小さな壮行会のようなものだったのではないだろうか。観光が二の次なのは、伊角さんに英気を養ってもらいたかったからに違いない。そんな旅行先でなおお土産に頭を悩ませる真面目さに、その結果わざわざ家まで来る特別さに、笑みを溢していた。それが自嘲的な笑みであると、自覚しながら。
 伊角さんは瞬きを繰り返し、視線を一瞬上へ逸らしてから――過去を思い出すときの癖だ――、また、まっすぐオレを見た。瞳に宿る悪戯っぽい肯定の光が、自嘲的な心を貫く。
 単なる年上の気遣いのようだったのに、だってそれでは、あるいは本当に。
「そうだな、棋院で渡したら他のやつからも言われそうだしさ」
「――じゃあ、」
 本当に、オレにだけ買ってきたから、それが特別だって分かってるから、誰にもばれないところで渡そうとしたの、と。
 口にしそうになって、その自覚に自覚的なのか判断できなくて、慌てて噤んだ。
「じゃあ?」
 爽やかで、仄かに甘くて、少しばかり苦い。そういえば、ファーストキスはレモンの味なんて言葉もある。この味こそ、伊角さんの特別でありたいという、この感情の味なのだろうか。それもまた、恣意的な願望でしかないのだろうか。
 どこまでも近づきたいのに、確信に辿り着くのが怖くて、その怯えを隠すようにまた笑った。
「……やっぱり伊角さんも、このお菓子食いたかったんだな」
 伊角さんは、何の衒いもなく、告げる。
「バレたか。和谷と一緒に食べたいと思ってたんだ」
 その言い様が、あまりに素直で、優しくて。
 否定されるとばかり思っていた冗談の声が浮ついたまま宙ぶらりんになって。
「お前には、これを味わってほしくてさ」
 爽やかで、仄かに甘くて、少しばかり苦い、この感情の味を、伊角さんもまた味わっているのだろうか。
 そう思惟してしまうことさえ、オレの独善でしかないのだろうか。
 閉めかけた箱から一つだけ包みを取り出し、レモンケーキを半分に割った。片方を差し出せば、首を傾げたまま伊角さんは受け取った。
「最後にこれだけあげるよ」
 そう言って、半分のケーキを口に放り込む。伊角さんは少しだけ眉を下げて、それでも同じように頬張った。
 時間の共有、味覚の共有、刹那の共有。
 それを本当にするように、伊角さんは片目だけを瞑った。全てを解き明かすような、遠いきらめきだった。
「誰にも内緒な」

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