あなたはあなたの神様 - 2/8

 当たり前のような顔をして咲いている桜の欠片が、遠く教室の左端にある窓ガラスへ粛然と張り付いていた。薄白い花弁が何枚か集まり、ほんの僅かな範囲だけ景色が失われて見えた。未完成のジグソーパズルのように抜け落ちていて――、あるいは、歪ながら十字に何本も線を引いていけば一色碁の打ち始めに見えなくもない。重なり合い曖昧になった花弁の境界から、無理やりに盤面を想像してみる。集団から一枚飛び出ている欠片は、ハネ、いや、カケツギか――。
「ということで、右端の一番前から自己紹介してもらおうか」
 視力の良さに物を言わせて無聊を託っていた伊角を現実に引き戻したのは、一つ前の席の生徒ががたがたと立ち上がった音だった。中学に引き続き黄土色の木目と鈍い色の金属で組まれた無骨な机と椅子は、少し動くだけで何だか喧しい。
 教卓まで呼ばれて出て行く彼を見て、自分も前に出て行かなければならないのか、と内心で溜息を吐いた。きっと周囲も同じ温度だっただろう。それらの憂愁をものともせず、名前順という避けられない運命に慣れきった顔の当人は極めて明瞭に、はきはきと喋った。
「アマノリョウタです。中学は市立の第三、バスケやってます! あとサッカーも好き、運動部入る人はよろしく」
 あまり聞かない、それでいて心当たりのある名字の響きに、伊角は目を何度か瞬かせた。名簿はもらったが目を引く名前は特段見当たらなかった気がする。
 答えを見つけるより先に、アマノは席へ戻る。
 ということは、次は当然伊角の番だった。
 体感で三秒は静寂が続き、慌てて腰を上げた。似たような椅子の雑音が学校らしい反響を生む。伊角はあまりこの音が好きではなかった。
 教卓の前で新たな同級生たちを見回そうとして、視線が窓に到達し、先刻まで思索していた桜の一色碁が脳裡を過った。――その幻想を急いで打ち消し、無心で口を開く。
「伊角慎一郎です。……、囲碁を、打ってます」
 簡素な一言だった。
 けれど、自分を表すものなど、他に無かった。
 高校生になってしまったことすら、戒めなのだった。
「よろしくお願いします」
 定型文のように告げて腰を折り、いそいそと着席した。
 そこから三十回ほど同じ流れが繰り返され、父母が現れ、またも担任の長い話があり――ほんの少しの自由時間の合間に伊角の静寂の扉を叩いたのは、同じ中学の出身者ではなかった。
「なあ、伊角って変わった名前だよな」
「え? ああ、まあ……」
 思い切り身体を捻って振り向いた、一つ前の席の彼だった。
「アマノ、も結構少ないんじゃないか」
 そういえば、と名簿を取り出す。思っていた漢字とは違って「雨野」だった。聞き覚えがあっても見覚えは無いはずだった。
「ほら、この字で書くのは初めて見た」
「あー、あんま呼ばれないから忘れてたけどそうかも」
 隣のクラスからがたがたと音が伝わってくる。クラスごとに教材を購入しに行く順番が回ってきているのだ。新生活のひんやりとした空気が廊下から流れ込み、周囲のクラスメイトもざわつき始めた。
 雨野は大きく頭の後ろで手を組み、身体を傾けながら伊角に尋ねた。
「ってか、俺全然分かんねーんだけど、囲碁打ってるって趣味? 部活的な?」
 小学校でも中学校でも、似た質問は幾度となく受けてきた。その度に真面目に答えるも、大半は「そんなのなれんの?」とか「まだ子供じゃん」とか、そういう風な顔や言葉を返されてきた。稀に「大変そうだね」「頑張れ」と激励や応援を受けて驚く程度には。
 畢竟するに、返答を考えるのが億劫になっていたのだ。学校生活よりも囲碁を優先すべきだという、同級生とは根本的に異なる指針を持つ以上理解してもらおうとは思わなくなっていた。
 伊角はそうして、興味本位らしい丸い瞳で尋ねてくる雨野へ、曖昧な笑みを浮かべる。
 そして、口を開こうとして、
「伊角、プロ目指してんだよ」
 左隣から、覚えのある声がした。
「河西」
 頬杖をつき片頬を上げた中学時代の級友がにわかに指を立てていた。彼――河西とは深い交友があった訳ではないが、伊角が碁を打っていることに関心を示しているらしく時折近況を尋ねられた記憶があった。放課後の殆どの時間を九星会や碁会所での鍛錬、棋譜並べに費やしている伊角を遊びに誘ったこともある奇特な人間の一人だった。
「プロ?」
 瞬きを繰り返す雨野に、何故か得意気に河西が返答する。
「プロ野球みたいに囲碁打って給料もらうんだぜ。な?」
「いやそれは……まあ、簡単に言えばそうなんだけど」
 なんでお前が嬉しそうなんだ、という伊角の困惑をよそに、雨野はその言葉に表情を明るくさせた。全くの予想外の明るさで、雨野は椅子から身を乗り出す。
「へー、マジなんだ! 俺の友達にもJBA行くって強豪高受験したやついるぜ」
 JBAって何だろう、という疑問を伊角が口にする間もなく会話が進んでいく。
「え、すげーじゃん。お前もバスケやってんだろ? 中学ん時は強かったの?」
「あー……、俺は部活レベル。でも友達はマジで強かったから、中学の大会はベスト8まで行ったんだ」
「それもすごいと思うけどなァ……でもJBA? バスケのプロってことだよな」
「そうそう、全然目指せるヤツだったからさ――」
 すっかり蚊帳の外となった伊角は、そろそろ訪れるであろう教材購入の時間に備えて鞄から筆記用具を取り出した。中学校から三年間使い続けた道具は案外消耗しており、中でもシャープペンシルはグリップの摩耗と本体の汚れが目立つ。いかに勉学に消極的とはいえ高校生になった以上もう少し道具を整えるべきか、と手に取って思案していると、こんこんと机を叩く音が聞こえた。
 河西と話し終えたらしい――そもそもの発端は伊角の話だったはずなのだが――雨野が、にこやかに問いかけてくる。
「伊角、囲碁のプロってどうやってなんの?」
 河西を見遣ると、反対側のクラスメイトと何やら話し始めていた。バスケの話題が止んだところで雨野は伊角の話に戻ったらしい。
 シャープペンシルを筆箱に仕舞いながら、答える。
「ああ、えっと、一年に一回、棋士採用試験……プロ試験っていう、受験者同士で……囲碁を打って戦う試験があるんだ」
「へえ、試験っていつ?」
「んー……本戦は八月から十月までの二ヶ月くらい、週三回」
「そんなに? 長えー、大変だな」
 雨野は驚きに唸りながら苦笑した。それを居心地悪く思わないのは、彼がここまで囲碁に関する事柄を否定しなかったからだろう。本心から慰労を示しているように思えた。彼もまた奇特な人間のようだった。
「でもどんな業界だってプロを目指すなんてすげーよ」
「え? あ、ありがとう」
「俺は――」
 そこで、教室のドアが大きく音を立てて開いた。担任が急いた足取りで教卓まで進み、大仰な手振りで教室中へ呼びかける。
「じゃあこれから移動して教材を受け取りに行きます! とりあえずこっちの列から立って」
 一番右端、伊角の列から順にのろのろと席を立って廊下へ出る。のろのろと歩く内に生徒同士話しかけたり距離を取ったりが起こり、次第にばらばらに散っていく。
 何かを言いかけた雨野は、廊下に出る手前で知り合いらしき男子に話しかけられ会話を始めてしまった。気にはなったが、割り込んで声をかけるほどのことでもない。
 流れに身を任せて歩いていると、背後から河西が肩を叩いてきた。そういえばさあ、と中学校の同級生の話題が始まる。覚えていないとは言わない、が、特段仲が良かったような覚えもない程度の知り合いについて。きっと河西も他に知り合いがいないから自分に話しかけてくるのだろう。伊角は深く考えずに相槌を打ちながら、周囲に流されるまま廊下を進む。
 そうして入学初日はあっけなく過ぎていった。

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