四月最初の院生研修は二戦とも白星で、内容も良かった。去年度のプロ試験での惜敗から気分を一新、と言うには時間が経ち過ぎているが、どこか前向きな気持ちが自分の大部分を占めているのもまた確かだった。進学に際し憂鬱さだけでなく、新たに応援の言葉をかけてもらった喜ばしさを今更ながら実感しているのかもしれなかった。
勝敗表に三目半の白星を捺していると、同じく勝ったらしい和谷が左から覗き込んできた。
「オレもつけて、オレも! 一目半!」
「おまえも二連勝? やるな」
「しかも真柴さんにだぜ」
「マジで?」
自慢げな顔で胸を張る和谷に驚嘆しつつ、大島に黒星、和谷に一目半の白星、真柴に黒星を捺す。
二人の様子に、真柴が大きく嘆息しながら壁際から声を飛ばした。
「おい、次は勝つからな」
ふんと大きく鼻を鳴らして真柴は顔を背けた。負けず嫌いの質が強すぎるのか強情な姿勢を取る真柴に、和谷は訝しげに眉を顰める。
伊角はその頭を乱雑に掻き乱しながらつい目を細めた。
「和谷、この前から調子良いなァ」
「っつ、ちょっと、ガキ扱いすんなよっ」
「してないしてない。触り心地がいいだけ」
「はあ……」
しばらくしてから手を離すと、和谷は少し屈んだ位置から不服そうに唇を尖らせ伊角を見上げた。睨めつけるような視線はきっと気恥ずかしさを内包しているのだろう、と年下の思春期――伊角とて思春期真っ只中のはずだがそれを棚に上げて――のことを思って小さく笑みが溢れた。
和谷は一度洗心の間を見遣り、その一角を親指で差しながら普段の穏やかさで振り向いた。
「あっち見に行こうぜ」
二人で席を立ち、残っている対局を覗き込む。終局したところで、周囲の院生と共に検討が始まる。ここは疑問手か、ならツケるよりハネた方が、そうしたら――と各々の意見が飛び交って、研修時間の終了が来る。
碁盤と碁笥を片付ける院生達の中では、憂愁を帯びた世間話が広げられていた。
「俺も今年受かんないと受験しなきゃいけないんだよなあ」
「別に公立の高校行くだけなら難しいことないでしょ」
「お前そんなに勉強嫌いだっけ?」
「ってか、受験すること自体が嫌じゃん」
「一組二十位が偉そうにするもんじゃないっての」
やいのやいのと言いながら歩いて行く彼らの背を、伊角は静かに見ていた。
伊角は四月、院生三位からのスタートだった。一月、二月、三月と年が明けてから上位を行ったり来たりで、それでも一位にはまだ届かなかった。三月に年齢制限となった人達が院生を去り、伊角が三位になっただけだ。順位はプロになるために直接関わる要因ではない。外来が合格することもあるし、予選から受験するような院生下位の受験者が合格することだって稀にある。
とはいえ、順位が自分の実力を証明するよすがの一つになっているのも確かだった。自分は院生の中でも実力があり、一方でまだ上位を目指す分の伸び代があるのだと思えた。
けれどそんな順位とはまた別に、四月が訪れ高校一年生になってしまった、という現実に臍を噛んでいるのも、紛れもない事実だった。
「……今年こそ……」
碁笥を定位置へ片付けた和谷が、不意に振り返って首を傾げた。
「何か言った?」
その問いかけで、無意識に言葉が溢れていたことに気づく。
「ああ、いや……」
なんでもない、と取り繕おうとして、一度口を閉ざす。
――和谷とよく話すようになってから、もう少しで一年が経とうとしている。他の院生と比べても、友人と呼べるほどの関係が築かれている数少ない一人になっていた。
それはきっと、内心を素直に伝えてくる和谷に安心感を覚えているからだろう。そうして流れた一年という歳月は過ぎてみれば早かったようで、絆を生むには有り余ってしまうくらいだった。
その眩しさに照らされることが、その真っ直ぐさに手を引かれることが心地良くて。
伊角は碁盤を置いた手でふと首元をさすりながら視線を泳がせたが、最後には和谷の瞳に辿り着いた。
「オレももうそろそろ十六歳になっちゃうんだな、って思ってさ」
自戒を込めて、けれど努めて明るく、僅かな苦々しさを帯びて微笑む。
中学卒業までにプロになるという、目指していた一つの境界を越えてしまって、今年こそ、なんて言葉しか使えない伊角の情けなさを。
和谷は驚愕の声で吹き飛ばす。
「そうじゃん、伊角さんもうすぐ誕生日だっけ!?」
「あ、ああ……あれ? 話したか?」
「去年オレの誕生日の話したとき聞いたよ」
似たようなざわめきの中を歩き、隣室に置いてある鞄を持ち上げる。さして大きくも小さくもない肩掛け鞄の中から手帳を取り出して開くと、八月の日付に和谷の名前が書かれていた。
「和谷って夏生まれっぽいよな」
「それ、前も同じこと言ってたな」
「そうだっけ?」
和谷がリュックを背負ったのを見て、エレベーターホールへ足を進める。開かれた空間で二人、エレベーターがやって来るのを待っていた。
「でも、確かに」
「ん?」
やわらかく、そして仄かに悪戯っぽさを含んで和谷は笑んだ。
「去年は過ぎちゃってたから、今年は誕生日祝いに何かしてェな」
「オレの?」
「伊角さん以外にいねーだろ」
「和谷がかァ。大体家族と祝ってばっかりだから、なんかレアだな」
再度手帳を取り出し、使い古され摩耗が目立つシャープペンシルで書き込もうとして、気がついた。
「あ、十八、研修無い土曜だっけ。どうする? そもそもオレ午前授業だ」
「――そっか、高校生だもんな」
和谷はつと俯いて、目を伏せた。ほんの少し、影が落ちた気がした。
何かを言うべきだったのかもしれないけれど、何を言えばいいのか分からなくて、そして丁度、エレベーターのドアが開いて。
「和谷――」
「うん? 早く乗りなよ」
人工的な照明に満たされたエレベーターへさっさと乗り込んだ和谷は、すっかりいつも通りの顔をしていた。手帳を仕舞い促されるままに隣に並び、一階まで下るに任せる。
エレベーターに乗っている僅かな時間。言葉に悩んだ伊角と同じく、和谷も押し黙っていた。たった数秒の空白に重みを感じるも、不思議と息苦しいとは思わなかった。
一階に到着する直前、刹那の沈黙を破ったのは和谷だった。
「あのさ」
言葉と同時に、エレベーターの扉が音を立てて動いた。
まるで流れ星を見つけたような表情で伊角を振り返り、開かれた扉の外へ歩きながら和谷は言う。
「伊角さんの誕生日、オレ行くよ」
「行くって?」
「伊角さんの学校まで。オレは休みだからさ、外でマックでも食べてどっかに打ちに行こうぜ」
若干冷えた棋院の売店を抜けて雲居の空の下へ出る。春特有のほんのり湿った風が颯然と吹いた。伊角は靡く髪を抑えて、隣を歩く和谷へ微笑んだ。
「ならわざわざ高校まで来なくても、昼飯オレんちで食ってそのまま打とうぜ」
硬く揺らぐだけの髪の奥で和谷の目が丸くなっていくのが分かった。頬の輪郭と同じくらい丸くなった瞳ごと和谷が聞き返す。
「え? 伊角さんち? いいの?」
「いいよ。昼飯もお母さんに言ってみるし大丈夫だと思う」
「ほんと? やった!」
丸かった目が途端三日月に似た薄さに細められ、そして嬉しそうにはしゃぐ声と共に破顔した。
「伊角さんち初めてだなっ」
「大袈裟だなァ」
「オレにとってはオオゴトだよ」
一通り喜びを表したのち、和谷は上げた両腕を頭の後ろに回して唸った。
「でもやっぱり学校まで行ってみてーな」
「わざわざ?」
「いいじゃん! ……迷惑ならやめるけど」
「そんなことないけどさ」
「じゃ、決まりな! どうやって行けばいい?」
「えーと……ちょっと待てよ」
打てば響くように予定が決まる和谷の即応具合に苦笑を漏らしながら、手帳の無地のページを開き、最寄り駅からの道程を書き込もうとする。通い慣れたとは言えない日の浅さに加え徒歩通学の身であり通学路ぐらいしか把握していないのだが、自宅と最寄り駅の経路と共に何とか繋ぎ合わせ、校門まで辿り着くには充分だろうと思う程度の線が引かれた地図ができあがった。駅を出て、直進してから右へ曲がり、道なりに歩いて交差点を左に曲がり、そのすぐ先にグラウンドが、と――こうして見れば大して難しい道でもなく、紙に起こすほどでもなかったかもしれない。しかも和谷と外出した過去何度かの記憶では、大概駅周辺の地理を掴むのが早かった。方向感覚については勘の良さなのだろう、と努力で何とかしている身として感じるばかりだった。
とはいえ書いてしまったものは仕方がないし勿体ないので、びりびりとページを破り――もとい切り離し、首を傾げたまま何事かと伊角を待つ和谷へ差し出す。
「これ」
「うん? あ、地図? ありがと」
再び帰路を辿る中、和谷は伊角が渡した手書きの地図を食い入るように見ていた。そんなに凝視するほどの情報量は含まれていないだろうに。
ほどなくして和谷はリュックの前面を開き地図を仕舞う。入れ替わりで定期券を手に、どこか陽気な足取りで伊角の方へ顔を向けていた。
「へへ、楽しみだな」
「日曜も研修で会うだろ?」
「それとこれは全然違うじゃん」
鼻歌でも歌い出しそうな眩しい笑顔が、午睡の春風に吹かれていた。
市ヶ谷の駅に辿り着くまでの緩やかな速度は、和谷と一緒に歩いているときだけのものだった。
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