あなたはあなたの神様 - 4/8

「そうだ。オレ、明日は休むから」
「ああ、研修だっけ?」
 帰りのホームルーム終了後、ふと言い忘れていたと思い出して帰り支度をしている河西へ声をかけると、河西もまた頷き返す。クラスメイトに対しては担任から説明があるだろうが、伊角を知っている中学時代からの知り合いには自ら伝えるに越したことはない。特に様々な感覚がリセットされている新学期の始めは。
「土曜の授業ってオリエンテーション無かったか?」
「分かんない、なんかあったら月曜に教えてくれないか」
「……お前ってそういうとこあるよな」
 伊角の返答に河西は肩を竦め、学生鞄をパチンと閉じた。席を立ちながら、なんだそれ、と口にしようとした直前、半分寝ぼけ眼の雨野が素っ頓狂な声を上げて振り向いた。
「えっ、伊角休み?」
「うん、院生の研修があるから」
 授業が始まるようになって数日、伊角が院生で、院生研修とは何たるか、ということについて雨野へ話す機会があった。第二土曜日と日曜日は朝から棋院で研修があるのだと聞くとまるでクラブチームみたいだなぁと雨野は感心していたが、クラブチームが何かを知らない伊角は曖昧に頷くしかできなかった。
「へえ、学校休んで良いんだ。いいなー」
 羨望が込められた嘆息が雨野から漏れる。それはきっと嫌味ではなく、勉学を苦に思う一般的な学生の正常な反応なのだろう。
「んー……」
 学校が嫌なわけではない。けれども院生になってこの方、囲碁を置いて優先すべきものなど無かった。土曜日やプロ試験期間のみならず、運動会や修学旅行といった学校行事が日曜日に開催される度不参加を選択してきたし、それが当然といった意識でいた。話題の共有も難しかったし、何よりプロにならなければ学校の授業も進学も何一つ意味を成さないという感情が同級生との交遊を消極的にさせていた。
 決して嫌いなわけではない。けれど、理解してもらおうとは思わなくなっていた。雨野のような反応は伊角にとっては良くあるものだった。
 そして慣れてはいても、そう反応する相手の感覚も、どう答えるべきかも、未だに分からなかった。
 言葉が見つからず机と壁の間で立ち尽くす伊角へ、雨野は続ける。
「来週も土曜休み?」
「いや、第二土曜だけ」
 そこで、同じく立ち上がった河西が声を上げた。
「あっ、そういや来週って伊角、誕生日じゃね?」
 その隣にいた友人――古賀と名乗っていた記憶がある――がつられて会話へ参加する。
「え、そうなの?」
「ああ、うん、十八」
 何気なく頷くと、雨野が両腕で椅子の背もたれを抱えながら驚いたように大きく声を上げた。
「マジかよ、そういうの言えよ」
「自分から言わないって」
 伊角は肩を竦めながら、似たような会話をしたことがあるな、と去年の梅雨を想起していた。勿論二人以外誰も知らない会話を今持ち出す気は毛頭無く、ひっそりと壁に凭れかかりながら自分の席の周囲で広げられる会話を聞いていた。
「古賀はいつだっけ?」
「僕? 三月」
「なんだ過ぎてんじゃん。ちなみに俺は来月の……」
「聞いてない聞いてない」
「そうだ伊角、土曜誕生日なら学校終わったら飯食いに行かね?」
 唐突に、閃きを滲ませた雨野が笑顔を向けてくる。
「いいじゃん、お前も来いよ」
「え、僕も?」
「あー……」
 きっと良い人間なのだろう。話すようになって日の浅い相手と交遊を深めようとしてくる性質の、善良な人間。
 それでも伊角には先約があったし、それを優先したかった。一度した約束は守らなければならないという倫理観と共に、それ以上の何かを守りたかった。
「ごめん。悪いけど、その日は約束があるんだ」
 伊角の断りの言葉が落ちたほんの一瞬ののち、三人は色めき立った。
「お前まさか――」
「なるほど、僕達はお邪魔らしいよ」
「そうか、そりゃそうだよな」
「待て待て、何か勘違いしてるだろっ、違うって」
 神妙な顔で伊角を見る三人の起こした誤解を解こうと声を荒らげたとき、教室のドアから聞き覚えのない呼び声がした。
「おーいリョウタ遅えよ、早く帰ろうぜ」
「あ、悪ィ悪ィ。じゃあな、また明日――ああ、伊角は月曜か」
「うん、じゃあな」
 雨野はひらひらと手を振り、違うクラスの友人らしき人物と連れ立って教室を出て行った。そして未だに自分が教室に引き止められていたと気付き、伊角も同じく学生鞄を肩に掛けた。
 別れを告げようと二人の方を見遣ると、河西は訝しげな視線を伊角に向けていた。
「伊角、マジで彼女じゃねーの?」
「違うってば。今はそういう場合じゃないし」
「ふーん……」
 納得していない表情だったが、嘘も偽りも無い以上他に言うことも無かった。河西とはそこそこの付き合いがあるとはいえ、決して囲碁やプロ棋士への知見があるわけではない。そしてそれは彼だけではなく、恐らくこの学校の全員が、あるいは一般的な学生生活を送るほとんどの人がそうなのだ。
 故に、理解してもらおうとは思わなかった。
 恋なんて、したいとも思わないしする余裕も無いし、もしすることがあっても、きっと気づけもしないだろう。自分達の関心が向く先はいつだって碁の世界ばかりで、だからこそ今ここで生きているのだと理解してもらうには、伊角の持つ言葉では足りはしないのだ。
 そしてこの狭い教室の端に立つ伊角にできたのは、事実を伝えることだけだった。
「院生の友達と会うんだ」
 河西と古賀は顔を見合わせ、普段と同じ顔で朗笑した。
「分かったよ。じゃあ、また月曜な」
 そうして二人と別れの挨拶を交わし、伊角は帰路に着く。
 少しずつ葉が増えてきた桜の木と蕾が開きつつある満天星の立つ街路を早足で通り過ぎながら、伊角は考える。
 明日の研修、対局相手は誰だっただろうか。
 

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