二日間の院生研修を終えるも、全体的に調子が良いとも悪いとも言えなかった。打ち回しに疑問手もあったが相手の失着で中押し勝ちしたり、激戦の末に一目半の敗北を喫したり、安定しているとは言い難い状態ながら勝敗数で言えば何とか勝ち越していた。
とはいえ日曜日の午後、自分でも感心するほどの勝着を見つけた一局があった。院生師範にも手放しで褒められた一手に自分の成長を感じ、上機嫌に碁石を片付ける。
「あーあ、オレ伊角さんに勝てる気しないなぁ」
対局相手だった本田は深く溜息を吐いた。先月から一組へ上がってきた本田は棋力こそ力及ばずだが恐れに気圧されない強さがあるようで、伊角の積極的な踏み込む手に対し機を伺うように耐える碁を打っていた。
碁笥を碁盤へ上げつつ、伊角は本心から称えて笑んだ。
「今日は勝てたけどいつかは負けるさ。……それがプロ試験でないといいけど」
「はは、そうかも」
本田は顎に手を当てて俯いた。検討が終わっても思惟は続く。戦いは盤面の話だけではなく、誰しもの中にもある。
伊角は勝敗表へ向かい、自身の白星と本田の黒星を捺す。表を上から一瞥して頷いたところで、中山が声をかけてきた。
「次、貸してくれ」
あ、と気づいて振り返ってみると、奥の方にいる和谷もまた碁盤の前で項垂れていた。
「中山さんが勝ったんだ」
「そりゃな、この順位で和谷に負けてらんねえよ」
中山は飄々とした顔で自身に中押しの白星を、和谷に黒星を捺した。同じくやってきた岡田が中山の隣へ座り込んだ。
「お前今年調子良いな。ま、俺は今年こそ受かるけど」
「俺だって受かってやるからな」
岡田はひったくるように勝敗表と判を取り、中山と何事かを言い合いながら捺していく。
彼らは自分より一年二年年上だからか、強気なようであり余計に焦っているようでもあった。
今年こそ、という言葉を聞くたびに、それを口にしてしまうたびに、そこに確証が無いことを思い知らされてしまう。伊角とてもう三度不合格の烙印を押されている。言いたくない、けれども、自分がまだ不足していると思えるからこそ、言いたくないと感じても良いのかもしれなかった。
伊角は静かにその場を離れ、奥へ移動した。
そして項垂れて腕を組んでいる小さな背に、穏やかに呼びかけた。
「和谷」
「ん、伊角さん」
和谷は仄かに沈んだ声色で振り向いた。誰だって負けたら悔しいし暗澹とした気持ちにはなる。特にその競技が好きであればあるほど。
それでも和谷は切り替えが早い方だと思っていたし、院生研修で暗い顔を続ける姿が珍しくてついその瞳を覗き込んだ。
「元気ないな。そんなにこっぴどく負けた?」
「ううん、結構善戦したと思う」
「その割に暗いぞ。何かあったのか?」
「……、」
伊角の問いに、和谷はざわめきの小さな周囲を見渡し、幾許かの逡巡を経て苦々しく嘆息した。
「帰りでいい?」
日曜日の終わりが訪れる。院生が次々に帰ってゆき、また学生生活へ戻るための時間が始まる。伊角は久々に無人の洗心の間を後にした。
静まり返った棋院の廊下を、先週よりも大人しく光る蛍光灯が照らしていた。
「あのさ、全然、伊角さんが思ってるような話じゃねーと思うんだけど」
青白くも見慣れた灯りの下で、和谷が口を開く。
「中山さんが勝ったあと、『俺も年長でギリギリだし、今年こそ受かんねえとな』って言っててさ」
「うん」
「それ聞いて、伊角さんが先週言ってたこと思い出したんだ。もう十六歳になる、って」
「ああ、それでお前が祝いたいって言ったやつだろ」
和谷は一瞬言葉に詰まるも、真剣な瞳で伊角を見つめた。
「伊角さん。だから――」
何かを言いかけて、そうして、目を逸らした。言いたいことが決まっていないのに口を開く、なんてことを和谷は滅多にしないのに。
伊角がその反応に首を傾げるより先に、和谷はもう一度顔を上げ、鋭く澄んだ声を放った。
「オレたち、プロになろうな。絶対」
同時に、エレベーターの扉が開いて廊下に光が増した。和谷は光を踏みながらその中へ向かう。
その背に、想起する。――今年こそ、という、自身の呟きを。
言葉を尽くせば理解されるわけではない。根本的な部分で本当に分かってもらうことなどできない。そう諦めていても、求めていたし、信じたかった。
誰かに、と願ったそれを、感情を、心を。
この眩しくて優しい真っ直ぐさを持った友人に、ずっと預けたかった。
和谷なら、と、信頼したくなっていたのだ。
故に。
和谷の表情が暗かった理由を聞くことも忘れ。
「……絶対に」
その強い眼差しに、伊角はただ、安堵していた。
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