中学から高校になったところで、学生として与えられる日常は大差無かった。春の中盤になっても残る肌寒さに身を竦めながら教室へ入り、早くも高校生活に順応しつつあるクラスメイトと軽く挨拶を交わす。
疎らに埋まった席の中、前後左右誰もいない右端の前から二番目に着席し、棋譜集を取り出す。伊角の席として与えられた机は、授業を受ける時よりもこうして空き時間に碁を勉強する為に用いられる時の方が真面目に使われていた。
何人かが登校し徐々に喧騒が増していったその頃、眠たげな足取りで前の席に雨野が座った。
「伊角、おはよー」
「おはよう」
雨野はごそごそと鞄へ手を入れて小さな包みを取り出し、その中身を伊角の机の上に置いた。
「誕生日だろ、おめでと。これ、やるよ」
棋譜集を閉じて脇に避ける。机の上に置かれていたのは、鮮やかな赤と白の御守だった。
「囲碁のなんたらとかはよく分かんねーけど、試験って言うならやっぱりお守りだろって思ってさ。近所のでかい神社のだぜ」
白字で『合格祈願』と書かれたそれを、制服のポケットに仕舞った。
「……ありがとう。わざわざ悪いな」
雨野は人当たりの良い笑顔で、伊角に明るく笑いかけた。
「いいっていいって。受かるといいな、プロ試験」
「そうだな、頑張るよ」
「おう」
ほんの半月前に出会ったばかりなのに祝ってくれて、しかもプレゼントまで渡してくれる律儀さに半ば感動すらしていた。
同時に、彼に落ち度は全く無いのだと悟って。
じっくり見るのが息苦しくて素早く仕舞った御守に、喜ばしい気持ちと同時に湧き上がる異なる感情を、どうすればいいのか分からなくなった。
午前授業ということは、大半の生徒は昼食を取るために早々に帰宅する。
終わりの合図と共にクラスメイトは怒涛の勢いで席を立ち、伊角もまた流れに乗りながら昇降口へ向かっていた。
「よ、伊角。遅ればせながら誕生日おめでとう」
「ああ、古賀。ありがとう」
下駄箱へ上履きを仕舞いながら、古賀はばつが悪そうに頭を掻いた。
「特に何も用意してなくて悪いな。何かもらったりした?」
「ああ……雨野から合格祈願のお守りもらったなぁ」
「マメな奴だなー、友達多いわけだよ。よかったな」
自分とは違って、という含みを持った呟きに曖昧な失笑を返す。
そこで、いつもなら話しかけてくる友人が見当たらないことに思い至る。
「そういえば河西は?」
「さあ? 先帰ったと思うけど……あ、あそこにいる」
古賀は昇降口の先、門の手前を歩く河西らしき後ろ姿を指さした。
河西には朝にさらりと祝いの言葉をかけられたのみで――そこに特段不満があるわけではないのだが――落ち着きのない様子で教室を出ていったのが気になって、ふと、既知の友人であろう古賀に尋ねてみた。
「あいつ、今日なんか予定あるとか言ってた?」
「知らないな。別に無いと思うけど。……ん? なんか、何してるんだろ?」
「え?」
「誰かに話しかけてる。誰?」
古賀が訝しげに投げた視線の先を伊角も追いかける。
河西の隣、門の隙間から見えたのは――。
「和谷!」
「え? 知り合い?」
「先週言った院生の友達っ。行かなきゃ、じゃあな!」
「じゃあな。……伊角って、あんな慌てるやつだったんだ」
伊角は昇降口を出て校門へ急ぐ。近づくほどに、愉快そうな表情の河西と怪訝な態度を取る和谷が明瞭に視界に映って、いつの間にか駆け足になっていた。少しばかり着丈の合わない制服が、今はひどく煩わしかった。
「和谷っ!」
「伊角さん!」
「お、伊角」
若干息を切らしながら呼んだ声は自分でも驚くほど大きくなった。なんだか気恥ずかしくなりながらも、振り向く和谷の表情が明るくなったのを見て心底安心している自分がいた。
「遅く……はなってないと思ったけど、待たせたか?」
「ううん、そうでもねーよ」
「ならいいんだけど……。河西、お前何してるんだよ」
にこやかに応える和谷の反対側をじろりと睨むと、河西は首を傾けつつ苦笑した。
「いや、見たことない子供がいるから、誰かの弟かと思って話しかけただけだぜ」
「子供っ……!?」
目を丸くして絶句する和谷を見て。
確かに――と、思ったことは、否定できなかった。
普段会うのは棋院であり、院生は全員対等なライバルであり仲間、という意識が強いせいであまり感じないことも多いが、やはり他人から見たら三歳の年の差は大きいのだろう。いざそう言われて和谷を見遣ると、幼気な顔つきも、小さな背も、細い身体も、確かに、弟のようだった。
中学生になりたての子供である和谷にこれほど安心感を抱くのも、不思議な話だった。
「伊角の彼女が待ってたりしねーかなと思って一足先に来てみたらこの子がいてさ。院生の友達って同級生かと思ってたし」
「お前なあ……」
「悪かったって。面白がってるわけじゃ――いや、ま、それもあるけど、お前って全然そういうの言わねーしさ」
河西は肩を竦め、和谷を一瞥する。
「じゃ、俺は帰るよ。邪魔したな。和谷くん、伊角って生真面目だし何考えてるかよく分かんねーけど、まあよろしく」
そう言って河西は通学路に沿って去っていく。少し経つ頃には周囲の学生に混じり、景色の一つになっていた。
その背を見送る伊角を、和谷は頭のてっぺんから爪先まで眺めていた。
「どうした?」
「いや、へへ、ブレザー似合ってるなと思ってさ」
「うーん、まだちょっと大きいんだけどな」
「伊角さん元から背高いし、もっと伸びそうでいいじゃん」
「おまえに比べたらな」
まだ着られている状態の制服で腕を伸ばしてみる。手のひらまで届いてしまいそうな長さの袖を見て、二人で小さく笑った。
「オレだってもっと大きくなるぜ!」
「っふふ、頑張れ頑張れ」
そうしてふいに和谷が、思い出したかのように口を開く。
「……っていうか、彼女って?」
「だからいないんだって。あいつらがからかってくるだけ」
伊角が歩き始めれば、和谷はいつものように着いてきた。そのまま和谷は大きく息を吐き出し、緩やかに微笑んだ。
「びっくりしたー。彼女できたのかと思って焦ったぜ」
「なんでお前が焦るんだよ。第一、オレたちってそんな場合じゃないだろ。だって――」
プロ試験に合格しなければ、何もならない。
プロにならなければ、何一つ進めない。
自分の力しか頼れない長い長い試験に受からなければ――。
そうして口を噤んだ伊角の視界で、朝と同じ色の春風が吹いた。
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