あなたはあなたの神様 - 8/8

 
「今日もらったんだ。クラスメイトに」
 
 和谷は伊角の手にある御守をじっと見つめていたが、やがて、屈託なく笑った。
「いいじゃん。応援してくれてるんだろ?」
 その迷いの無さが、真っ直ぐさが。
 伊角の心を、じわりと締め付けた。
「――……、」
 一瞬だけ、息を止めて、けれど、吐き出すこともできなくて。
 無理に意識を逸らそうと、御守ごと手を握りしめて空を仰ぐ。
「……、あ、オレんち、あそこ」
 住宅街に入ってから街路樹はもう無くなり、並び立つ家々と曇天の切れ間の青空が目の前に広がっていた。その、まだ少し遠く、二階建ての影が見える程度の自宅の屋根を、伊角はゆっくりと指し示した。
「どれどれ?」
「そこの奥の――」
「ああ、あれ? よしっ」
 目的地を見つけるや否や急ぎ足になった和谷を、今度は伊角が追いかける。お世辞にも運動神経が良いとは言えないが年齢的にも体格差的にも伊角の方が早い……と思いきや徒歩では追いつけず、最終的に伊角も小走りになっていた。これでは体育の評定が上がらないわけだった。
 表札を眺めて待つ和谷の元へ数秒遅れて到着し、校門に引き続きまた軽く息を切らして屈む。愉快そうに微笑む和谷の前でなんとか呼吸を整え、ドアを開けた。
「ただいま……。お母さん、和谷連れてきたから」
「こんにちは。お邪魔します」
 玄関から上がると、母親が上機嫌にリビングから出てきた。慣れた手付きで靴を揃え丁寧に腰を折る和谷に、母親はよそ行きの微笑みを返す。
「おかえりなさい。和谷くんね、こんにちは。慎一郎が友達を連れてくるなんていつぶりかしら」
「ちょっと、お母さん」
「伊角さん、連れてくる友達いねーの?」
「いや……碁打たないやつ呼んでも仕方ないし」
 純粋なのか憐憫なのか判別できない和谷の問いに、不自然に口籠る。事実を述べただけなのに、和谷がやけに興味を持ったのが分かってほんのりと居心地が悪くなる。
「でもねえ、院生になってから全然……」
「余計なこと言わなくていいから!」
 伊角の心境など露知らず楽しそうに口を滑らせる母親を無理やり遮る。母親は気を悪くしたふうでもなく小さく笑い、あっさりとリビングへ踵を返した。
「慎一郎、お昼ご飯できてるから食べるときに言いなさいね」
「わかった」
 友人の多い弟たち――次男は部活、三男は遊びに、と兄とは反対に活動的な二人――はともかく、自分が友人を連れてくることが稀有なせいかやけに張り切っているらしい母親を横目に、和谷を自室へ案内する。
 鍵の無いドアを開けると、当然のように登校した時のままの様子が残っていた。簡素な部屋だ。勉強机と本棚と、ベッドと箪笥と、碁盤と碁笥。
「あ、座布団足りないな……」
 今更になって気がつく。一人部屋に慣れきっていて、自分以外が部屋で過ごすときの振る舞いを想定していなかったのだ。――誘ったのは自分なのに。いかに生活に対する現実味が薄いのかを実感して自嘲する他なかった。
 学生鞄を床へ放り出して自室を見回す伊角を一瞥した和谷は、同じく鞄を置いて小さく笑い声を上げた。そのまま躊躇いなく床へ座り、薄いラグを跨いで後ろ手をつく。
「ははっ、伊角さんらしー」
「……そうか?」
 何も気にしていないような朗らかさにむしろ焦りを感じて、一枚しかない座布団を差し出す。
「とりあえずこれに座れよ。オレここでいいから」
「ええ? 大丈夫だよ。伊角さんが打つ時どうすんの?」
「オレは平気。ほら、おまえ客なんだから」
「わかったよ」
 渋々といった様子で和谷は座布団を受け取る。和谷はしばらく布目と伊角の顔とを見比べていたが、伊角に使う気が無いと察したか座布団を置き、その上で胡座をかいた。
 それを見届けてから、伊角は気の抜けた鈍い音と共にベッドへ腰を下ろす。目と鼻の先で、和谷は伊角の部屋を興味深そうに眺めていた。自分ひとりでは持て余すくらいの広さの空間は、和谷がそこにいるだけで随分と狭く感じる。
 物の少なさに飽きたのか、和谷は視線を戻して座布団を軽く叩いた。
「ったく、伊角さんって強情だよなァ」
「そうか? ……あんまり言われたことないな」
「なんつーのかな、自分の中のラインとかルールを譲らないじゃん」
 真面目だ、と言われることは多々あった。自分なりに正しいと思う道を選択して、間違っていると思う道に背を向けて、必要だと思うものだけを手元に残して――、そうしていたら、知り合いからは生真面目で実直だと言われるようになった。
 自身をそうだと信じるに至らないのは、そもそも、自分自身のことなんてよく分からないままだったからだ。この身体があって、ここで生きていて、こうして碁を打っている、目指すものがある、それだけで完結している気がしていた。畢竟するに、自分自身の性質について真っ当に考えたことなど無かったのだ。
 困惑する伊角を見据えながら、和谷は続ける。
「伊角さんの友達、伊角さんは何考えてるか分かんないって言ってたけど、オレはなんとなく分かるよ」
「……たとえば?」
「そうだなあ……」
 二、三拍の空白の間、曇りの間隙から漏れた薄陽が窓から差して、和谷とその手前の碁盤へ落ちていた。花曇りは徐々に、終わりを告げつつあった。
「――もらってたお守り、あんまり嬉しくなさそう、とか」
 泰然とする和谷に、虚を衝かれる。
 そんなこと、と否定するより先に、どきりとする自分がいることに気がつく。
 ……嬉しくなかった、のかもしれない。そう思うべきではないと御していただけで。
 静かにポケットに手を入れ、鮮やかな御守をもう一度取り出した。
『合格祈願』。
 新品特有の布地の艶も、明滅するような赤色も、透き通った白字も、痛いほどに輝いていた。
「そう、かな」
「うん」
 伊角の呟きへ、和谷は苦笑を咲かせた。
「伊角さんって、自分の納得いかないことずっと考えてそうだし、そもそも自分の話あんまりしないだろ。……すぐに分かんないこともあるけど、でもオレ、伊角さんのこともっとちゃんと知りたいよ」
 ずっと。
 ずっとずっと、伊角は衝撃を受け続けていた。
 和谷の真剣で真っ直ぐな眩い瞳に穿たれて初めて、その真っ直ぐさが「子供だから」ではないと気づいたのだ。
「……オレのこと、かぁ」
 和谷は、自らそうあろうとしていたのだ。
 その事実に胸を揺さぶられたまま、伊角は今まで向き合ってすらこなかった自身について、訥々と口にしてみる。
「――これはさ、」
 吹いては凪ぎ、時に立ち止まり巻き上がり、時に花弁もを攫う風さながらに。
「神頼みすることじゃないんだよ。それを、あいつらは多分、分かってはくれない」
「……うん」
 もう散ってしまった桜の通り抜ける音を思い出しながら、御守を優しく握り締めた。
「応援してくれて、頑張れって言ってくれるだけでありがたいよ。でも、だからこそそれが、……」
 和谷は、じっと伊角の目を見つめていた。
「うん」
 小さく相槌を打っては伊角の言葉を待ちながら、ひたすらに。
 伊角は目を伏せて、問いかける。自身に尋ねる。それは驚くほど不慣れな行為だった。
 自分のことを言わないのではなく、言うことが見つかっていないだけだという事実を反芻して、ゆっくりとかぶりを振る。
「……寂しかったんだろうな」
 ようやく、自身の中に渦巻いていた幼稚な感情を捉えて、吐き出した。捉えられて、吐き出してしまえた。
 この部屋が狭くなったからこそ手が届いたのだ。
「ああ」
「うまく喜べなかったんだ。……オレって薄情者なのかな」
 伊角の答えに和谷はまた一つ相槌を返してから、一部だけ光を浴びて佇む碁盤を撫でるように指先で触れた。閉じられた碁笥の合間を縫って、そこに無い石を掴むように。
「ううん」
 そして伊角と同じように右手を握り締めて、――見たことのない透明さで、切実そうに微笑んだ。
「オレは、どっちも分かる、と思う」
 細められた瞳の奥で、何かが揺れていた。
「どっちも、って?」
「伊角さんの気持ちも、その友達の気持ちも」
 和谷は自身の手を握ったまま、伊角の手へ視線を移す。
「そのお守りはさ、伊角さんが受かることを友達が祈ってくれたっていう証なんだろ。プロがどんなものか知らなくたってそう思ってくれるんだから、本当には分かってくれなくたって十分良い友達なんだろうし。伊角さんに受かってほしいのを伝えたい気持ち、分かるよ」
 祈り、とは。
 神様に向けても、叶うかどうかは分からない。それでも何か与えたくて――他に与えられそうなものが無くて、祈ることを選んだのかもしれない。
「オレもさ、伊角さんは今年こそ受かるって、信じてるし」
 和谷は目を伏せて、力強く言う。
 信じる、とは。
 碁の神様を、ではなくて、伊角自身のことを、であるようで。
 受かるといいな、ではなくて、受かる、と信じてくれるのは、和谷だからで。
 自分達が祈るものなど無くて、信じるべきは自分自身で、なのにもう高校生になってしまった自分を、伊角は直視できないままで。
 ――けれど和谷は、そんな伊角さえも信じると言うのだ。
「……でも」
 そうして、春に似た速さで、和谷は息を吸い込んだ。
「オレたちのことは、オレたちにしか分かんねェだろ?」
 それは、言外に語っていた。
 プロ試験が何なのかも、院生でいることの意味も、自分達しか理解し合えなくて。
 そうであることを、自分達は、言葉なしに理解し合っているのだと。
 だから伊角は。
「和谷」
 真っ直ぐに、その名前を呼んで。
 伊角を見上げる丸い頭を左手で撫でた。硬いようでしなやかで少しの力では倒れもしない和谷の髪を、指先に通すように、そして掻き回すように。
「おまえ、まだ一年なのに言うなあ」
「ちょっ、あんまりぐしゃぐしゃにするなよっ」
「ごめんごめん」
 苦笑しつつ和谷の頭から手を離すと、今度は不服そうな顔になる。伊角が問うより先に、和谷は唇を尖らせた。――見覚えのある顔だった。前に棋院で見たものに似ている、あるいは、同じ顔。
「別に、触るなとは言ってないけど」
 その表情が、言葉が、何より声が、先程までの切実さからは信じられないくらい幼気で。
 不意に、伊角の胸の裡が仄明るい温かさで満たされた気がした。思わず大きく笑い出してしまいそうな弾力を抑えるように、口元を押さえて俯く。その拍子に、まだ握ったままの自身の右手が目に入った。
 手を開いて、中を一瞥して、それをまた、そっとポケットへ仕舞った。
 空いた右手で、今度は優しく和谷の頭に触れる。
「お守りはどっかにしまっておいて、受かったらあいつに返そうかな」
「え? 返すもんなの?」
「確か買った神社に返すようにって親に言われた記憶があるぞ。」
「へー……って、それ自分でやらなくていいの?」
「……分かんない」
「ははは!」
 和谷が愉快そうに声を上げて笑うと揺れた頭から右手が離れた。浮いた手の置き場に何故か迷って、伊角はそのままベッドから立ち上がり碁盤の前へ腰を下ろした。
「せっかく来たんだし、飯の前に一局打つか?」
「あ、その前にさ」
 和谷は床に置かれた鞄を開いて探り始めた。ほどなくして縦長の小さな紙袋を引っ張り出し、和谷の向かい側へ座る伊角の眼前へ差し出した。
「誕生日おめでとう、伊角さん。これあげる」
「ありがとう。おー、プレゼントまで。開けていいか?」
「もちろん」
 とは言いつつ、簡易な包装から特徴的な凹凸が透けている時点で筆記具であることは推定できた。和谷も中学生だなという感想を内心に秘めつつ封を開けて中身を取り出す。
 それは、透き通った青色のシャープペンシルだった。
 伊角はペンを電灯にかざしながら感嘆の声を漏らした。
「これ……」
「碁の関係で今更オレがあげるようなモンないし何がいいかなーって思ったんだけど、伊角さんのシャーペンかなりヘタってただろ。だから」
「よく知ってたな。オレだって買うの忘れてたのに」
「忘れてたのかよ。ギリギリセーフだったなァ」
 手にしているそれは、伊角が使っているものとよく似ていた。全く同じだと言えないのは自身の文房具への関心の薄さ故で、そのことが少しだけ後ろめたかった。自分の持ち物に対して、自分より和谷の方が関心を持っているだなんて。
 和谷はぼうっとペンを見つめる伊角に楽しそうに顔を綻ばせ、再度鞄へ手を入れた。
「高校生ってこういうの使っててカッコイイじゃん。でさ、オレもおんなじの買っちった!」
 鞄から出てきたのは、伊角が持つものと同じシャープペンシルだった。和谷の指先で青く光る揃いの輝きに目を瞠って、すぐに笑いが溢れた。
「っふふ、おまえ……」
「なに?」
「いや、はは、なんでもない」
「あー、そうやってすぐゴマかすんだもんな。言ってよ」
 伊角はシャープペンシルを袋へ戻して勉強机の上へ置いた。が、思い直してまた封を開け、古いペンと入れ替えようと筆箱を開く。見比べてみると分かる、似ているが少し違うペンだ。けれどそれで良かったと、和谷からもらった新しいペンを一度だけ握り締める。
 筆箱を鞄へ入れ、また碁盤の前へ座る。
「大したことじゃないって。なんでそんなに聞きたいんだ?」
 和谷は僅かな逡巡ののち、前のめりになり胡座をかいた足首へ両手をつける。
 近づく双眸の奥で揺らいでいたものが、強い閃光となって宙を走った。
「だって、伊角さんのこと一番知ってるのは、オレがいい」
 それはもしかしたら、幻想だったのかもしれないけれど。
 つい先刻受けた衝撃とも、伊角の胸を満たした仄明るい温かさとも違う、遥かな遥かな眩しさが目の前に現れた。
 あるいは、最初からあったのかもしれなかった。
 院生でなければ出会うことも無かった人達の中で、碁だけが繋がりの理由である人達の中で。
 それだけじゃ足りないと伝えてくる、伝えてくれる、その眩しさが。
「院生になってまだ一年なのに?」
「じゃ、これからだろっ」
 どこまでも、果てしなく。
「プロになったらずっと一緒に打つんだから!」
 ――嬉しかった。
 そう言ってくれる人が、この部屋にいるのだと。
 対面にいるのだということが、何よりも。
 そうしていると、和谷はふと伊角の顔を見て狼狽し始めた。
「そ、そんなに変なこと言った?」
「え、別に、全然」
「だってなんか、泣きそうな顔してるけど」
「え?」
 指摘されて初めて、目の周囲の熱い重たさに気づく。油断したら本当に涙が出てしまいそうな熱さと霞んでしまいそうな視界を、思い切り両手で擦った。涙は消えても、その残滓は指先と胸の裡に深く染み込んでいた。
 それを振り払うように――振り払うべきだったのだろうか?――、碁盤の上からひとつ、碁笥を降ろした。
「なんでもないからなっ、もう、打つぞ」
「……伊角さんがそう言うなら」
 和谷も自身のペンを鞄へ戻し、残っていた碁笥を手にする。
 伊角は白石だった。手を差し入れ、石を握る。他のどんなものより、石を握ると心が落ち着く。
「伊角さん」
「ん?」
 伊角は拳を碁盤へ置き、和谷が黒石を握るのを待つ。
 和谷はまたも部屋を見回し、そして伊角をじっと見つめ莞爾と笑った。
「誕生日、おめでと。それと、ありがと」
 それだけを言うと和谷は迷わず手を碁笥に入れ、碁盤の上へ置く。
 黒石が、一つ。
「ありがとう、はオレの言葉だろ」
 和谷の言葉に疑問を浮かべながら、伊角も右手を開いた。ばらばらといくつもの石が落ちる。
 白石を数える伊角に、和谷は首を振った。
「オレと打ってくれてありがとう、ってこと」
「そんなの、いつだって打つぜ」
 院生研修でも打てる、そうでなくてもこうして打てる、そしてプロになれば、もっと打てる。
 プロに、なるのだ。
 伊角の返答に、和谷は嬉しそうに――それは嬉しそうに、頷いた。
「……へへ」
 白石を指先で選り分ける。
 二、四、六、八、余り一。
「和谷の黒番だな。お願いします」
「お願いします」
 一礼し頭を上げる。部屋の中には、晴天を抜けて葉桜の隙間を通ってきた、やわらかくあたたかく眩しい春陽が差していた。
 光の中で、和谷が一手目を打つ。
 
 それが、伊角が十六歳になって最初の対局だった。